仮面の道化師

 この世の中の連中は、僕よりもずっと不幸だ。
 金も権力も身分もない、時間をただ平淡に浪費している人間が大半だ。
 だけど、僕は違う。
 金も権力も身分もあるし、容姿だって並み以上。死なない体も手に入れた。
 選ばれた証も右手にある。
 僕の人生は波乱万丈。楽しいイベントがいっぱいだ。
 だから、僕は違う。
 時間をただ平淡に浪費して、バカみたいにへらへらと笑い合う人間たちよりも。
 ずっとずっと、幸せなんだ。


 ――月並みな幸せというものを、チェリックは知らなかった。
(……杏珠。君は、今どこにいる?)
 どこまでも平凡な彼女に、言いしれない感情をもって執着し始めたのは、彼女が子供たちを思って歌った子守唄を聞いた時からかもしれない。
 子供に向けて紡がれる詩からは、彼女の確かな優しさが感じ取れた。それが彼女の持つ、生まれ持った環境ゆえの母性であると気付いたのは、後々のこと。
 格子越しの窓からは、月も、星も、勿論太陽すら見えない。
 暗闇の牢の中で、チェリックは空を見上げていた。


  1


 夢を見る。優しい王子様の夢だ。王子様は和葉に笑いかけて、この世界の色んな話を聞かせてくれた。
 緑の大地、虹色の空、水晶の湖、精霊と人獣、剣と魔法のファンタジー。
 和葉は元の世界にいた時から、ファンタジー世界を題材とした本やゲームが好きだった。幼馴染の善と二人して一晩中RPGのレベル上げを行ったこともあるし、善の姉から借りたファンタジー小説を授業中に読んでいて教師にこっぴどく叱られたこともある。
 だからファンタジーは和葉にとってはとても身近なものだった。王子様の語る天球の景色も情勢も、和葉には何の意外性もない。そう、これが本の中やゲームの中の世界なら。
「う、嘘でしょ……骸骨で建てられたお城だなんて、そんな……」
「いいえ。実際に存在しています。獣人族は攻め込んできた人間たちを返り討ちにした後、その身を切り刻んで食べてしまうのです」
 ぞぉぉ、と背筋が寒くなった。和葉の顔色が悪くなっているのに、王子様は随分と楽しそうになおも語る。
「残った骸骨を固めて、強固な要塞へと有効活用する――。獣人族はとても合理的で、頭の良い種族なのですよ」
「うええ……。野蛮。水晶の湖とか、精霊とかは見てみたいけど、そんなお城は見たくないよぉ」
「そうですね。僕も同意見です」
「王子様は水晶の湖、見たことあるの?」
 いつの間にか彼のことを『王子様』と呼ぶのが普通になってしまった和葉は、始めのうちに彼がその呼称を聞いてどんな反応をしたのか覚えていない。
「そう、ですね……。昔、僕が幼かった頃、兄弟たちと行ったことがあります。でも、他は見たことがないですね」
「そしたらさ、一緒に見に行こうよ!」
「え?」
 何の気もなしに言った台詞に、王子様が大げさに驚く。
「?……だめ?」
「だめというか……その……」
 王子様は言いにくそうに視線を泳がせた。ああ、と和葉は気付く。
「そっか。まずは、夢の外で待ち合わせしなきゃね!王子様は何処に住んでるの?私、迎えに行くよ!」
「………」
「王子様?――えっと、もしかして、私と会いたくない、とか……?」
 目を反らされて、和葉はショックを受けた。王子様とはもう何度も夢の中で会って語り合い、すっかり友達のようなつもりでいたのだが、どうやら思い違いだったらしい。
「迷惑だよね!ごめん、図々しかった!」
「いいえ!そうではないんです」
 もう一度向けられた王子様の瞳は濡れていた。心なしか、顔全体が赤いようにも見える。
「その、とても、嬉しいです。ぼ、僕も、和葉さんと一緒に外へ出たい」
「あ、えっと……」
 その必死な様子に、和葉もつられてどもってしまう。
「大好きです。和葉さん」
「へ!?」
 その衝撃の言葉に、和葉の視界はホワイトアウトした。


「おい。起きろ、和葉。おい!」
 一気に和葉は覚醒した。布団から飛び出て、目の前の物体に飛びつく。
「うわあああん!善兄ぃぃぃ!」
「む、」
 掴んだそれを揺さぶり、顔をうずめ、叫ぶ。
「夢!夢!ゆーめー!私は善兄一筋だから信じてぇぇぇ!――でも、格好いい!王子様乙女すぎる!かーわーいーいー!」
「何を言っているのかさっぱりわからんが……」
 低い声。ん?と和葉が気付いた時には、視界が反転していた。
「俺に襲われたいということだな?和葉」
 布の少ない衣装がはだけ、褐色の胸が目の前に見え。いつも被っているターバンを外しているのだな、と思い当たることもなく。
「ひ、」
 ひぎゃああぁぁぁぁぁぁぁぁ
 駆け付けたヒズメがジェイムに向かってドロップキックをかました。

「朝っぱらから何やってんだよ、てめえらはあぁぁぁ!!」
 布団の上で正座した和葉とジェイムは、ヒズメから説教を受けていた。
「もうすぐ出発の時間だってのに天幕を片付けにこねぇで!つーか、ジェイムはなんで和葉の天幕にいたんだよ!」
「決まっている。一緒に寝ていたからだ」
「えー!?」
 和葉は確かに寝る前は一人だったはずだ。寝る前は。
「こ、この男色野郎……」
 ヒズメの拳がぶるぶると震えた。
「和葉が寝てる間に忍び込みやがったなぁぁ!ぶっ殺す!」
「変態!信じられない!へんたーい!」
 和葉も立ち上がり、ジェイムを睨み下ろした。ジェイムは布団の上に正座しながら、涼しい顔で少女たちの非難を浴びている。
「ふ……教えてやろう、お前たち」
「?」
 変態変態、と罵倒していた和葉とヒズメは、ジェイムの自信満々な様子に動きを止める。
「変態とは、褒め言葉だ!」
 へんたーい!
 少女たちの叫びが木霊した。

 セレズニアを奪還したシルヴィスからの連絡を受けた和葉たちは、すぐさまジャオを出発し、仲間の元へ向かった。その際に赤の一族と蟲の一族を取り纏めるため、マオラがジャオに残り、スイゲツが蒼蛇区へ戻っていった。その代り、和葉の要請を受けたジェイムが意気揚々と同行したため、赤の一族の中ではかなりの反発があったのだが――
「俺はわかったんだ。あれはただのバカと書いて変態だって」
 と、誰かが言い出し、ジェイムの奇行を目の当たりにした他の者も諦観を抱き始め、いつしか「まぁ、和葉に押し付けとけば俺たちに害はない」という共通概念ができてしまった。今ではジェイムに面と向かって反発するのはヒズメだけである。
 そんなわけで、朝から無駄な体力を使ってしまった和葉とヒズメは、よろよろと朝食へ出かけた。一般兵士たちから離れて朝食を摂っているヒビキとユエ、サメギを見つけて合流すると、騒ぎを聞いていたのか、ヒビキとユエが意地の悪い笑みを浮かべた。
「モテるな、和葉」
「生涯一度きりのモテ期なんじゃないのぉ?大事にしなさいよ」
「ふたりとも、うっさい!」
 和葉は二人の傍を避けて、サメギの隣に座った。地面に枯草で編んだ敷布を敷いただけの食席だが、数日前の山間部での枝まみれの食席よりは大分ましだった。
 ヒズメもサメギを挟んで向こう隣りに座ったが、挟まれたサメギは我関せずと言ったように干しイモを食んでいた。いつもは怖いだけの眉間の皺も、今は癒される。
「知らなかったよ。サメギって癒しキャラだったんだね……」
「奇遇だな、私もそう思ってた」
 ヒズメも同意見らしい。サメギは溜息をついて、二人の口にパンを突っ込んだ。黙れと言う意味らしい。
「朝、セレズニアのシルヴィスから連絡が入ったわ。草原の魔女はあっちに着いていないみたいよ」
「ええー?私たちはあと二日くらいでセレズニアに着くんだよね?あの人、単身で私達より随分早く出発したのにどこまで行っちゃったの」
「いい男でも見つけて寄り道してるんじゃね?」
 少女たちの言葉にヒビキが噴き出した。
「まぁ、草原の魔女はイレギュラーな存在だからな。あいつの力は当てにしないでおこう」
 そうは言われても、彼女(彼?)の戦闘力が抜けるとなると痛い、と和葉は思う。
「ってことは、あのすっごい光も出せないわけだろ?」
 ヒズメが和葉の右手の紋様を見ながら言った。そうねぇ、とユエが考えるそぶりを見せる。
「黒兵の力を押さえるには、王印の力が必要……なのよね、きっと」
「ユエも知らないの?」
 和葉の問いにユエは苦笑した。
「チェリックが従える、ゾンビ集団――黒兵は、緑竜の目覚めの時期に決まって現れる邪悪な存在。伝承では王とキングメーカー両者の王印の力によって滅却されると伝えられているけど……直近でも百年も前のことだもの。私もよく分からないわ。というか、それ以前に、魔女が王印を持っていたっていうのも訳が分からないんだけど」
「まぁ……黒兵に関しては、お前たちとセレズニアの次期王帝が頼りだな。ユエの『太陽』もジェイムの『妖蟲』もシルヴィスの――『星』も、パートナーがいないから使えない」
「うーん。早く雅に会いたいなー」
 パートナーと聞いて、和葉は雅を思い浮かべる。和葉の呟きを聞いて、隣のサメギが目を眇めた。相変わらずイモを食んでいる。
「なんだよ、雅雅って。和葉もスイゲツも雅雅雅雅うるせーよ」
 そう言ったヒズメは拗ねたように顔を反らした。ヒビキとユエがまたもにやにやと笑みを浮かべたので、和葉は首を傾げる。
「和葉には雅っていう相棒がいるからなー」
「ヒズメちゃんももうちょっと胸と知性があればねぇ」
「う、うっせーよ!黙ってイモでも食ってろ!サメギ兄貴を見習え!」
 ヒズメがサメギの真似をしてイモをヒビキとユエの口に押し付けようとするが、大人二人相手にはそううまくはいかない。ヒビキは「ありがとよ」と言いながら一口で飲み込んでしまったし、ユエは「炭水化物ダイエットしてるから」と言って何故か和葉の口へイモの軌道をずらした。お蔭で和葉の口はパンと芋だらけである。
「もごもご」
「マオラ姉貴とスイゲツからも早馬が来ていた。蟲の一族の増援は見込めなそうだ。予想以上に殺虫剤が効いたらしい。スイゲツからはこれだ」
 苦しむ和葉を無視して、サメギがユエへ何かを投げた。ユエが拾った物を見ると、小指の先ほどの石だった。
「これが蒼蛇の秘宝ね。早かったじゃない」
「そうじゃの秘宝?なにそれ」
 初耳だった。和葉はパンと芋を飲み下し、問うた。
「円卓の王が使うことでどんな病も治す石ころよ。青の一族が管理しているの。これをよこしたってことは、スイゲツは私を認めてくれたわけね」
 サメギは肩を竦めることで答えた。イエスかノーか、和葉には分からなかった。
「半年とちょっと前、スイゲツと初めて会った時に約束をしたのよ。この戦いで私の知略を見せつけて認めてくれたら、この石を頂戴、ってね」
 ユエはヒビキの顔をちらりと見た。ヒビキはユエの手の平の上の石を見つめて、何か言いたそうに目を細めた。
「おい、」
「お説教は後よ。伝令が来たみたい」
 ユエが視線をやる方向を見ると、背の低い少年が手をぶんぶんと振ってこちらへ走っていた。赤の一族でも青の一族でもない、見たことのない顔だ。
「壬弦じゃねぇか!」
 ヒビキが大きな声を上げたので、走って来た少年も驚いたようだった。ヒビキは立ち上がり、少年の元へ大股で駆け寄ると、がしっとその両肩を掴んだ。
「なんでお前が伝令なんだ!――シルヴィスに、何かあったのか!」
「うわ、わ、ちょ、ヒビキ、さ、落ち、落ち着いてくださいぃ」
 どちらかと言えば貧弱そうな少年が筋肉質な大男に掴みかかられている。見かねて、和葉が間に立って止めてやると、少年は「ありがとうございます」と礼儀正しく頭を下げた。
「和葉さんですね?僕はシルヴィス様の部下の壬弦です」
「あ、はい。よろしくお願いします」
 思わず敬語で応対した和葉を押しのけて、ヒビキが言い募る。
「おい。暢気に自己紹介できるってことは、緊急事態じゃないんだな?」
 その横では、ユエが表情を硬くして壬弦の答えを待っていた。壬弦は困ったように表情を歪めた。
「シルヴィス様は無事です。というか、騎士団にもセレズニア側にも被害はありません。ですが――」
 壬弦が声を潜めた。
「チェリック王子が本国にて死刑判決を受けました。実刑は四日後です。それを受けて、騎士団・セレズニア連合軍はチェリック救出の為シャイオン遠征を決行しました」
「な、」
 ヒビキが絶句した。和葉はぽかんと口を開ける。
「なんですって!?何故そんなことに――もう、出発した!?セレズニアはもぬけの殻ってこと!?」
 和葉はユエのこのように焦った姿を初めて見た。
「例えグリンクレッタがやり過ぎたとしても、シャイオン王位継承権を唯一持つ王子に対して、死刑判決だなんて常軌を逸してるわ。シャイオン国王は国を滅ぼすつもりなの。それとも……」
 ユエは下を向いて少し考え込んだ後、壬弦に視線を戻した。
「いいえ。問題はそれだけではないわ。何故チェリック王子を救出になんてことになっているの。敵国の王子だもの、放っておけばいい話だわ」
 その通りだ。和葉もそう思った。壬弦は言葉を選ぶようにして答える。
「その……ですね……」


 ぶぅん。蟲が知らせた事実に、ジェイムは数瞬言葉を失くし、眉を寄せた。
「なるほど……な。ついに……」
 見放されたか。その言葉を発することができずに、ジェイムは目を瞑る。
 知らぬ仲ではないが、盟友と呼ぶには知り合って間がない。チェリックとジェイムはそんな関係だった。それでも、彼と自分とはどこか似た部分があるということにジェイムは気付いていた。
 ただ一つ違うのは、チェリックには救われた経験がないということだ。
 ジェイムはチェリックを憐れんでいた。他人へ向けられる優しさを己へ向けたいがために歌姫を閉じ込め、己の為の歌を歌わせ、その実ちっとも救われていない彼を憐れみ、見下していた。
 己には和葉がいるが、彼には何もない。
 己には愛を向ける存在がいるが、彼には何もない。何もないまま、愛されたいと愛した存在に切り捨てられ、殺されるのだ。
「まさに……道化の、愛」
 『仮面の道化師』に相応しいのは彼しかいないと、ジェイムは確信した。

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