歌姫

  2


 先代覇王レイヴィスは天球で最も大きな大陸エナスの殆どの土地、民族を圧倒的な力でまとめ上げた英傑であった。しかし、その彼が力でねじ伏せられなかった存在が二つある。それは魔族と、人々に根付いた差別という悪しき風習だった。
 それでも、覇王は異種族同士なら仕方のないことなのだと思えた。だが、覇王に治められた天球の中で、最もそれが顕著に現れていたのは同族同士――リアンチェスト朝シャイオンの絶対的選民思想であった。
 灰色都市と呼ばれるシャイオンの首都を上空から眺めると、黒い円周の真ん中に白く荘厳な尖塔の城が幾多も見える。ドーナツのような真ん中の空間に聳えるそれらの城が、王族以下貴族と呼ばれる選ばれた民の住処である。
 周囲の黒い部分は選ばれなかった民、貧民の住処である。この土地は白の民が生み出す廃棄物や排泄物が捨てられ、黒の民は劣悪な環境の中、それらの中から自分の生きるための物資を探す。
 食糧は優先的に白の民へ運ばれ、黒の民は己の手で植物を育てるか、白の民のおこぼれを頂戴するしかない。その量は限りなく少なく、自然と黒の民の中でも優先順位が決められ、弱いものは直ぐに淘汰されていく。
 雅はセレズニア王宮図書館でシャイオンに関する本を読み直していた。読めば読むほど、己には想像もつかなかった世界が見えてくる。
『私はチェリック諸共、シャイオンを滅ぼすつもりだ』
 無情に言ったシルヴィスの言葉が思い出され、雅は無意識に胸を押さえた。
 あの一言を聞いた瞬間、鋭い痛みが胸を襲った。確かにあの時、雅は彼の一言で傷ついたのだ。
(いつの間にか……私はシルヴィスを分かった気になっていた。正義の人だと、思っていた)
 何が正義で、何が悪なのか。雅はそれを分類することはできない。悪しき風習を持ったシャイオンを滅ぼすと言ったシルヴィスの覚悟には正義が見えたが、その思想からは仄かに悪の気配がするように雅には思えてならない。
 百年の奇跡を起こす。彼とその仲間が言う台詞に、雅は改めて疑問を持ってしまった。だから図書館に籠って書物をあさり、胸に湧いた疑問の答えを出そうとした。だが、分からない。
(身勝手な国を滅ぼし、身勝手に作り直す。だめ。そうとしか、考えられない)
 迷いが生まれた。これ以上、シルヴィスに協力してもいいのだろうか。自分と和葉はもしかしたら取り返しのつかない事に巻き込まれているのではないか。今更ながら、後悔する。
 思い悩みながら歩いていたせいか、雅はいつの間にか帝宮の奥の間――杏珠の引きこもる部屋の扉の前に立っていた。
「雅……」
 間抜けに立ったままの雅を見上げたのは、先客の緋鶯だった。緋鶯は扉に背を預けて座り込み、ばつが悪そうに頬をかいていた。
 セレズニア奪還から一夜明けても、杏珠は緋鶯の呼びかけに応えようとはしなかった。チェリックがセレズニア奪還に気づき、戻ってくるまでにはあと七日の猶予があるが、あまりにも手ごたえのない説得を続けているうちに緋鶯は参ってしまったようだ。
(まるで天岩戸)
 雅は抱えていた本を床に置いて、緋鶯の前に座り込んだ。
「尻、汚れるぞ」
「緋鶯もね」
 緋鶯はふう、と溜息をついた。いつも元気で能天気な彼らしくもなくしょぼくれて、ずり、と扉に頭を擦り付けた。
「二区で俺たちが平和に暮らしているとき、チェリックが不意打ち同然で攻めてきたこと、話したよな」
 雅が頷くと、緋鶯は泣きそうに顔を歪めた。
「本当は俺はさ、杏珠を迎えに来る資格なんてなかったんだ。俺はあの時、杏珠を犠牲にして逃げたから」
「え?」
 瞬いた雅の視線から逃げるように、緋鶯は立ち上がった。
「俺、一区の五月蠅い連中を宥めるようシルヴィスに頼まれてたんだった。じゃあ」
 足早に去ってしまった彼を見送っていた雅は、同じ方向から天藍が困った顔をしてやってくるのに気付いた。
「今、緋鶯が自己嫌悪で死にそうな顔しながら走って行ったけど……何かあったのかい?」
「……何か、嫌なことを思い出させてしまったみたい」
 雅が答えると、天藍は『仕方ないなぁ』と言うように眉を下げ、雅を手招いた。
「杏珠。ちょっとだけ、一人にするよ」
「………」
 扉の内の杏珠は答えない。
(中で倒れていたりしたら――)
 扉の前に食べ物や飲み物を置いたりはしているが、杏珠はそれに手を付けないらしい。彼女の体力が限界を迎えるまでに部屋からどうにかして出さなければならないのだと雅は改めて感じた。
「杏珠さんは出てきてくれそう?」
「今のところ手ごたえはあまり無い、かな。いよいよになったら扉をたたき壊さないと」
 無理やりにでも引きずり出すのはヘリオスとグリンクレッタ兄妹の提案だ。シルヴィスはその案を却下し、日程に余裕があるうちは緋鶯と天藍に杏珠の救出を任せることにした。
「立ち話もなんだから座って。……緋鶯は――やっぱり、自分を責めている風だったかな」
 近くの小部屋に入った天藍は、勝手知ったるなんとやらというようにどこからかティーセットを用意し、テーブルに置いた。その早業をぽかんと見ていた雅は、問いかけられて気を取り直す。
「うん。なんだか、元気がなかった」
 促されて椅子に座った雅の前に、良い香りのする茶が置かれた。天藍は雅の前の席に腰を下ろし、ふう、と一息ついた。
「緋鶯は杏珠に拒絶されて悲しくてしょうがないんだろうけどね。僕は逆に、腹立たしくてしょうがないんだ」
 優雅にカップに口をつける。雅はほんの少し、違和感を感じた。
(……あれ?)
「僕はこの貴族が蔓延る第一地区の生まれでね。緋鶯と杏珠とは、特権階級から突き落とされた時に出会ったんだ」
 雅は違和感の正体に納得した。天藍の所作や言動からにじみ出る気品というものは、その育ちの良さから起因しているのだろう。某狂人王子の場合は意識的に考えないようにした。
「二区の孤児院に預けられて暫く、僕は与えられた部屋に引き籠っていた。丁度、今の杏珠のように。その時に煩く僕を引きずりだそうとしたのが彼らだったんだ」
「緋鶯と杏珠?」
 天藍は頷いた。
「あの頃の杏珠は活発で優しくて可愛くて。いや、今でも本当はそのままなんだと信じているけれど。チェリックに攫われてから、ああなってしまった。たとえ帝宮に幽閉されていたとしても噂っていうのは聞こえてくるものでね。彼女の悪い噂は後を絶たなかった」
「……」
「それでも彼女を信じて戦って来た僕たちを彼女は拒んだんだ。昔の僕みたいに全てを拒絶して死にゆこうとしている。本当に、腹が立つよ」
 腹が立つと言いながら、天藍の表情は悲しげだった。その表情をさらに歪めてしまう可能性を分かっていて、雅は問うた。
「チェリックが攫いに来たとき、貴方たちに何があったの?」
 天藍はそう問われるとわかっていたようだ。態々場所を移動して杏珠に話を聞かれないようにしたのも意味があるのだろう。
「僕が彼らと遊んでいた時、偶然知ったこと。手の甲の不思議な秘密の模様――王印だよ」
「杏珠の手の甲の?」
「……そう。僕は彼女の手の甲の模様を見てしまった。そして僕が十三歳になって一区にようやく戻された時、不幸にも同じ模様が手の甲に浮かんだんだ」
「――え?」
 驚く雅の前に、天藍が左手を差し出した。グローブが取り払われたそこに浮かぶ白い紋様に目が奪われる。女性の横顔に見えるそれは。
「貴方が、杏珠のキングメーカー?」
 天藍は頷いて答えた。雅は無意識に自分の左手に手をやり、甲を撫でた。
「僕は両親に話してしまったんだ。僕と対になる王の存在と、その所在を詳細に……。結果、その情報は巡り巡って隣国のチェリックの耳に入り、セレズニアが狙われることになった」
 どうしてそんなことをしたのか、今ならわかるよ、と天藍は告白する。
「僕は二度と会えないと諦めた彼らに、もう一度会えると思った。この王印が僕らを結んでくれるものと信じた。彼らの平穏を壊したのは僕――。でもね、彼らは僕を責めたりしなかった。歌姫だなんだと祭り上げられても杏珠は杏珠。ずっと孤児院で子供たちの世話をしていたし、緋鶯もそれを手伝っていた。再会した僕もちょろちょろと子供たちと一緒に遊んだり。周りが少し煩くなっても、来るべき円卓の日まで、あの陽だまりの中で暮らしていけると信じていたのに……チェリックがやって来た」
 天藍は虚空を睨みながら、悲しげに呟いた。
「僕はあの時ほど、己の無力を憎んだことはなかった。杏珠を囮にして緋鶯は逃げた。子供たちの命が最優先だったからだ。チェリックは逃げる緋鶯を笑い、杏珠は失望した。僕も失望した。周囲の人間の失望を身に受けて、緋鶯は萎んでいった。今も――あんな感じだ」
 初めて出会った時、なんてお気楽な二人だろうと雅は彼らを見て思った。明るく笑う緋鶯が実は、そんな過去を隠していたとは思いもよらなかった。
「緋鶯が笑えるようになったのはね、杏珠が生きているのだと確信できたからだ。チェリックは直ぐに杏珠を殺してしまうのだと覚悟していた僕らは、それで息を吹き返して、目標に向かって死に物狂いになろうと決めた。どんな仮面を被っても、僕らは杏珠を取り返すよ。だって僕らは……いや、僕は杏珠のことが――」
 天藍が静かに締めくくった瞬間、空気が揺れた。雅と天藍が同時に息をのむと、抑えた悲鳴がかすかに聞こえた。
 早かったのは勿論、天藍だった。雅は天藍の後を追うように部屋をかけ出て、杏珠の部屋へ向かう。
「あぁ!」
 男のうめき声。杏珠の部屋の扉の前に、それを背に守るようにして緋鶯が仁王立ちで立っている。その体には裂傷が痛々しく浮かんでいたが、その表情は怯んでいない。武器をどこへやってしまったのか、素手のまま腕を広げ、通せんぼの体制をとっている。
 対しているのは少女だった。駆け付けた雅と天藍へ振り向いたその顔はどこかで見覚えがある。
「女官……?」
 誕生祭の時、芸人一座を呼びに来た赤毛の女官だった。
「あれ?まだいたのかよ」
 女官はその可愛らしい顔に酷薄な笑みを浮かべて、天藍へ人差し指を指した。
「!」
 雅は咄嗟に天藍の前へ回り、両手を突き出した。生まれた空気の膜が見えない刃を受け止めるのを感じる。
 ガァン
 耳障りな音が弾け、顔を顰めた雅へ女官が投げかける。
「あんた、チェリックサマのお気に入りの女だよな。まさか魔族だなんて思わなかったぜ」
「……」
 雅は相手にせず、冷静に見回す。隙をついた天藍が血だらけの緋鶯に駆け寄り、容体を診ていた。
「誰も助けには来ないぜ。あんたを見習って、俺もこの辺一帯の男どもに魅惑の術をかけて動けなくしてやったからなぁ」
「……あなた、何?」
 赤毛の少女は女官服の上に外套を羽織りつつ、はは、と笑った。
「リクドウェル・ウィンダー。チェリックサマのチュウジツなしもべ。以後よろしくっと」
 空気の刃が飛ぶ。雅は障壁でそれを払いつつ、女官の足元を狙う。
「おー、寒い寒い」
 女官は余裕たっぷりに飛びのき、にやにやと笑った。
(ウィンダー。どこかで聞いたことがある。……どこ?)
「俺が改良した不死の妙薬を味わったそうじゃないか。どうだった?」
 は、と雅は息をのむ。
「チェリックにあの妙な薬を渡した奇特な一族……」
「ああ、それ、俺。俺はウィンダー家の次男坊」
 ウィンダー。その単語に引っ掛かりを覚えながら、雅は納得した。今まで読み漁った文献の中に、ウィンダー家のことが書かれていたものもあったに違いない。
「こんなナリしてても男だからな。今はほら、仕事中?みたいな?」
 ふざけた男だ。
「『歌姫』、暗殺しに来ちゃいましたー。みたいな?」
 ひやり。
 男の緑の瞳が冷たく光った。

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