歌姫

  1

 僕らは物心ついた時から一緒だった。
 僕は没落貴族の次男坊。生活に困った親に捨てられた厄介者。捨てられた先で出会ったみなしご達の中で、ひときわ輝いていたのはあの姉弟だった。
 杏珠と緋鶯は、子供ながらに貴族然とした僕の態度を気に留めもせず、無邪気に笑った。
 ――一緒に遊ぼう。
 ――兄弟になろう。
 昔の僕は単純だったから、優しい言葉をかけてくれる二人のことを直ぐに好きになって、いろんな遊びをした。缶けり、ままごと、砂遊び。僕はいつでも幸せで、元の生活なんて忘れてしまっていた。
 忘れてしまった冷たい場所に、帰らなければならなくなった時。僕のことを忘れないでいてくれた両親を想う前に、僕は二人を想って涙した。
 二度と、会えないだろうと思った。

―――――

 夕日が沈み、空が紫に暮れるころ。チェリック不在のまま、生誕祭が始まった。出番待ちの小部屋に呼ばれた芸人たちに紛れて、雅は薄布を纏った自身の格好をなるべく考えないようにしながら口を開く。
「本人がいないのに、普通に開催されるんだね」
「生誕祭は建前で、本来は常駐軍の慰安が目的だからな。セレズニアのお気楽貴族が考えそうなことだ。己の命の為なら血税を敵国の腹を満たす酒に変えても構わないらしい」
 頭に被ったカフィーヤの位置を直しながら、シルヴィスが皮肉る。
「この王宮の外の白けた空気が示している。……国全体が生誕祭ではなく、今夜の革命に注目しているぞ」
「皆、今夜のことを知っているの?」
「いいや。――だが、血気盛んな男たちが何かやらかすなら、今日しかない」
 シルヴィスは窓の向こうの城壁を見つめた。雅は悟って、頷いた。二人の会話を近くで聞いていた天藍が、他の芸人の目を気にしながら問う。
「本当に、僕らが指揮しなくても首尾良くいくかな。少し不安なんだけど」
「……貴方たちにも、先に紹介できればよかったのだが」
 シルヴィスは少し間を置いた。
「私には信頼に足る部下が幾人もいる。彼らが私の信頼を裏切ることはない」
「――ごめん。愚問だったね」
 天藍が微笑んだ。そこで、緋鶯が首を傾げる。
「でもさー。なんでシヴィは単独で行動してんだ?あんたの立場じゃ普通、しないだろ」
 雅は思わずシルヴィスを見上げた。
「お互い様だ」
 驚いて緋鶯を見やる。緋鶯は珍しく、真顔でシルヴィスを見上げていた。
(立場……?二人とも、何を言っているの?)
 天藍は微笑みを消さず、緋鶯の頭を殴っていた。何も知らないのは己だけらしいと気付いて、雅は知らず表情を硬くする。そんな雅の変化を見たシルヴィスが困ったように眉を下げた。
「すまない。お前を信用していないわけじゃないんだ。だが、今はまだ、何も言えない」
「どうして?」
 思わず非難がましい声を出してしまったと後悔するより先に、横から天藍が雅の頭をちょんとついた。
「知らないほうがいいことって、世の中にはいっぱいあるんだ。わかってあげな?」
「………私は大丈夫よ」
 雅が言うと、天藍は何故か驚いたように瞬いてから、諦めた様に苦笑した。
「君は、少しだけ杏珠に似てる」
 そう呟いた声の響きが驚くほど甘くて、雅は気恥ずかしくなった。視線を逸らした先にシルヴィスが己を見つめているのを見つけて、首を傾げる。
「なに?」
「……いや」
 シルヴィスは少し眉をゆがめて、ふいと顔を反らしてしまった。
「なんで拗ねてんだー?」
 いつでも直球の緋鶯が空気を読まない問いを発した直後、一人の侍女が一行に歩み寄り、頭を垂れた。
「ロイス・テリヌ芸人一座の皆さま、出番の刻限が迫っておりますのでお呼びに参りました」
 顔を上げた侍女の顔は目鼻立ちのはっきりした華のあるグリンクレッタのような美女とはまた違う、嫋やかな美しさがあった。まさに王宮女官といった佇まいだが、結い上げられた赤毛がどこか鄙びた印象を見るものに与える。
「かーわいー」
 緋鶯が顔を緩ませて言うと、侍女は頬を羞恥に染めた。
「それでは、ご案内します」
 突き放したような声は僅かに震えていた。どこか微笑ましい気持ちにもなりつつ足を踏み出そうとするが、隣にいたシルヴィスの様子がどこかおかしく、雅は立ち止まって彼を見上げた。
「シルヴィス、出番だって」
 侍女の顔を食い入るように見ていたシルヴィスは、今気が付いたというように肩を震わせた。
「あ……ああ。行こう」
「見とれてた?」
 ちょっとからかおうと思ったのだが、シルヴィスは真顔になって黙り込んでしまった。

王宮の大広間はすでに場が温まり、王宮には相応しくない粗野な男たちの笑い声が響いていた。男たちが酒を手に見やる特設舞台の袖から雅が少しだけ顔を出すと、舞台前に陣取った百名ほどの男たちの向こうにセレズニアの貴族や賓客と思わしき居心地の悪そうな集団が見えた。
集団の中にグリンクレッタと彼の兄だというヘリオス・ゲートリッジの姿を見つけた雅は、意味もなく隠れるように舞台袖の奥に戻った。
「この場に招かれたシャイオン兵は皆、隊長、副隊長クラスの男たちだ。あれを一気に沈めれば駐屯軍の指示系統は崩壊する」
(簡単に言うんだから)
 シルヴィスの小声の鼓舞に一抹の不安を覚えるが、やるしかない。雅はユエから教わった魔法の一部を脳裏に思い出すと、他三人の額に呪いをかけた。
 己たち芸人一行の名が呼ばれ、雅は駆けだす。
(こうなったら、一気にやっちゃおう)
 舞台に躍り出た雅はその場で軽くターンし、くるりと一回転した。その魅惑的な衣装に気を取られたのか、男たちの視線が雅に集中する。そのタイミングを計って、雅は魔力を放出させた。
(堕ちて!)
「な――!」
 後ろから追ってきた緋鶯が小さく悲鳴を上げたが、構わない。
 ありったけの魔力を放出して、雅は魅惑の術を大広間全体に行き渡らせた。


「く、くらくらする……」
 緋鶯が頬を紅潮させたまま最後の一人を捕縛して、ほうと息をついた。
「無効化の術を先にかけてもらった僕たちもこうなんだから、この人たち、当分再起不能なんじゃない?貴族もろとも」
 天藍が汗を拭う。シルヴィスは額を押さえたまま、どうやってか正気を保っていたヘリオスと何やら話をしていた。
 雅は大広間を見渡す。先ほどまでどんちゃん騒ぎだった空間が、今や屍のように放心した人間たちが囚われた牢獄のように見えた。雅は近くの兵士の目の前で手を振ってみたが、じっと雅を見つめるだけで微動だにしない。薄気味悪くなって、雅はさりげなく緋鶯と天藍の傍に後退する。
「自分がやったことだけど……魔法って怖い」
「まぁ、元には戻るよ、いつか。それよりも――」
 轟音が響いた。ヘリオスと話していたシルヴィスが素早く動き、窓の外を見やる。
「グリン!青い煙だ。こちらも赤い煙を上げろ。ヘリオス!誰もこの場から逃がすな」
「承知いたしました」
 グリンクレッタが踵を返し、ヘリオスが不敵に笑う。雅と緋鶯、天藍は顔を見合わせて走り出した。
 青い煙は城下で仲間が駐屯軍を攻撃し始めた合図だ。上官が居らず、彼らが捕縛されたことも知らない兵士たちは突然の奇襲に混乱を極めていることだろう。
 仲間が駐屯軍を攻撃し始めた所で、一行は二手に分かれることに決めていた。シルヴィスは仲間の指揮を執りに城下へ。雅と緋鶯、天藍は駐屯軍兵士が守る帝宮の一室――杏珠の部屋へ。
 当初、杏珠は生誕祭でチェリックの為の歌を披露することになっていた。しかし、生誕祭をすっぽかす形になったチェリックは、己のいない場で杏珠の歌を皆に披露させることを拒んだ。そのため、杏珠は今でも帝宮に捕らわれたままである。
「はぁ!」
 帝宮に乗り込むと、事態を察した兵士たちが次々に三人の前に立ちはだかる。魔法で立ち向かおうとした雅だったが、その前に緋鶯と天藍が怒涛の勢いで敵を倒してしまうので出番がない。彼らの後を必死に追いかけるのが精いっぱいだった。
(緋鶯、天藍――こんなに強いなんて)
 まるで旋風のようだと思った。緋鶯は両手剣、天藍は双剣を用いて敵を次々と切り裂いていく。
(血が……)
 ひやり、と胸の奥が疼いた。怖気づきそうになる心を鼓舞して、雅は息を切らして走り続ける。
 やがて、帝宮の一番奥の間へと辿りついた。雅にとっては奇跡のような強行軍だった。対して軽く息を切らしただけの天藍が、どんと奥の間の戸を叩いた。
「杏珠!杏珠、ここにいるんだろう!僕だ。天藍だ!」
「俺もいるぞ、姉ちゃん!ここを開けろ!」
 奥の間の戸は予想に反して、外側から閂が閉められているのではなく、内側から何かで閉ざされているようだった。何度叩いても叫んでもうんともすんともしない扉に業を煮やした雅が炎の魔法を使用することを決意したとき、内側からか細い声がした。
「緋鶯、天藍……?」
「そうだよ、緋鶯だ!杏珠、出て来いよ!」
 何かに確信を持っているかのように、緋鶯が扉を一際強く殴りつけて、額をそれに擦りつけた。
「ごめん、本当にごめん。置いて行って、怖い思いさせた……!」
「………」
「杏珠がなんて言ったって、一緒に逃げるべきだったんだ。もうあんなこと、しない!――だから、」
「どうして来たの」
 女性の声には生気が感じられなかった。緋鶯が額を扉から離して、「え……」と呟く。
「来ちゃいけなかった。どうして、来たの」
「どうしてって、だって、」
「逃げて!早く、逃げるの!」
 唐突に杏珠の声色が変わった。緋鶯はその変化に怯えたように眉を下げた。
「嫌だ。俺は杏珠を助けに来たんだ。もう逃げたりしない!杏珠に全て任せたりしない」
「助けになんて、そんなこと、頼んでない!」
 がん、と天藍が双剣の一方を扉に叩きつけた。
「ふざけるな!!ここまで来て、君がそんなことを……言うなんて……」
 勢いは次第に弱まっていった。天藍は声を荒げたことに後悔しているようだった。
 杏珠は緋鶯と天藍が己の言葉に衝撃を受けていることを悟ったのか、なおも言葉を重ねる。
「あたしはこの部屋にいる。この部屋にいたい。この部屋で、チェリック様の帰りを待つの」
「……!」
「お願いだから、放っておいて」
 緋鶯と天藍の悲痛な表情を見て、雅は胸にむかむかとした感情が湧き上がるのを感じた。だが、己は口を出すべきではないと判断し、今にも炎を放ちそうな右腕を?まえる。
「………。わか、った」
 絞り出すような微かな声で、緋鶯は言い、扉から手を離した。そのままその場を離れようとする緋鶯を追うように、天藍も舌打ちをしつつ踵を返す。
「また来るよ」
 声をかけた天藍に杏珠は何も答えない。雅は?まえていた右手を離し、扉を見据えた。
「きっと、後悔する」
 緋鶯と天藍が行ってしまってから、雅は呟いた。
「誰……?」
「誰でもいいでしょう」
 言ってから、雅は少し後悔した。突き放したように聞こえたかもしれない。
「緋鶯と天藍は、貴女の為にこの国を取り戻そうとしています」
 息をのんだような気配がした。
「そんな彼らが、肝心の貴女にとってここで簡単に追い返してしまえるような存在だったとは思えない」
「あたしは、……。……」
「あんなに想ってくれているのに、どうして応えてあげないんですか?」
 雅は問うだけ問うて、踵を返した。
(余計なことを言ってしまったかも……)


 引き返した大広間で、ヘリオスが微笑みを浮かべて待っていた。その傍には見慣れない青の一族の青年が立ち、しきりに窓から城下を覗いていた。青年は扉を開けて入った雅たちに一瞬瞳を輝かせたが、目的のものとは違ったのか、すぐに肩を落としてしまった。
「まだかよ……遅すぎるだろ……」
 よく見ると、青年の服には所々血がついている。帝宮制圧の折には姿を見なかったことから、王宮内を制圧するのに割いていた仲間の一人なのだろうと察した雅は警戒を解いた。
 その時、大広間の扉が再び開いて、グリンクレッタとやはり見慣れない青年――こちらは少年と言っても良い小柄な人間だった――を引き連れて、シルヴィスが戻って来た。
「総司令!」
 瞳を輝かせた青の一族の青年が駆け寄り、その前で敬礼する。
「第六師団副官イクス、王宮内の制圧を完了しました!」
 元気がいい。得意げに報告した青年イクスの頭を、シルヴィスが叩いた。
「いてっ」
「総司令だの師団だの……馬鹿者」
 呆れたような声の中に、仲間に対する慈しみが窺い知れる。雅は思わず彼らの顔を交互に見てしまった。
「イクスさん……軽率すぎますよ」
 雅と同じく彼らを交互に見ておろおろしていた小柄な青年が言うと、イクスはその顔を睨み付けた。その表情はシルヴィスに対してのものとあまりにも落差がある。
「お前こそ、その発言は軽率だっての。てゆーか、城下陥落するのに時間かかりすぎ。総司令が行くまで何やってたわけ?」
「そ、それは、勿論作戦通りに――」
「雅、緋鶯、天藍。紹介しよう。私の仲間のイクスと壬弦だ」
 一方的な口論が始まりそうな気配を、シルヴィスが華麗に遮った。イクスと壬弦はシルヴィスの言葉に居住まいを正し、三人に向かい合った。
「第六――シルヴィス様の副官、イクス」
「初めまして。壬弦と申します」
 憮然としたイクスとにこやかな壬弦はあまりにも対照的だった。三人が挨拶を返すと、イクスは値踏みするような視線を三人に――特に緋鶯に向けて、鼻を鳴らした。そして、ついと顔を反らす。余りにも無礼だったが、緋鶯自身は杏珠の拒絶から立ち直れていないらしく、気にした様子もない。代わりに、シルヴィスが目を眇める。
「イクス。彼らはこの度の勝利の最大の功労者だ。態度を改めろ」
「は」
 短く答え、イクスは敬礼した。態度は改まったが、表情は全く変わっていない。シルヴィスはそれ以上咎めず、困ったやつだというように嘆息した。
「それで、歌姫はどうしたのです?」
 高慢なグリンクレッタの一言を受けた天藍が首を横に振る。
「そうか……」
 沈思した様子のシルヴィスを見たイクスが緋鶯を睨む。緋鶯は俯いたまま、「ごめん」と呟いた。
「ごめんですみませんわ。貴方方なら歌姫を確実に奪えると思ったから協力したんですのよ?」
「悪かったね、役立たずで」
 天藍は苛立ちを隠そうともしていなかった。
「――とにかく。これでひとまず、セレズニア奪還は成った。だが、これで終わりではない。この件を聞けば、チェリックはきっと飛んで帰ってくる」
「まっすぐ、こちらに来るかな?」
 紅狼の砦まで率いた軍で直接引き返してくるか、それともシャイオンまで戻り、体勢を立て直してくるか。雅が問うと、シルヴィスの代わりにヘリオスが口を開いた。
「彼の性格だと、愚直にこちらに引き返してくるでしょう。ですが今回はそうならないように策を打っておきました」
「……策?」
「ええ。そのために、歌姫を何としても引きずり出さなくてはなりません」
「ええと………チェリックが強行軍でこちらに戻ってくるなら、疲れているうちに叩いてしまったほうが有利になるんじゃないの?」
 雅は思ったことを言ってみた。すると、ヘリオスとシルヴィスは少し驚いたように顔を見合わせた。
「私、変なことを言った?」
「いいえ。今まで日和見な生活を送っていたお嬢様に似つかわしくない、至極真っ当な合理的戦法だと思いまして」
 褒められている気がしない。雅が憮然としていると、シルヴィスが苦笑した。
「確かに、軍を退けて勝利するというだけなら、それで正解だ。だが、今回の狙いは勝負に勝つことではなく、相手を倒すことだ。お前には想像しにくいかもしれないが――」
 シルヴィスの顔から、取り繕った笑みが消えた。
「私はチェリック諸共、シャイオンを滅ぼすつもりだ」
 その表情は今まで雅が見てきたシルヴィスのどの表情よりも冷酷で、非情に見えた。

inserted by FC2 system