妖蟲

  4


 ぬるりと滑る。
 持ち直した小刀の切っ先から、赤い液体が一滴、二滴と落ちていく。
 狂人は何度も刺してやった腹の傷を押さえ、呻いて、なお、立っていた。
「ジルぅぅ、貴様ッ、行き倒れていたのを助けてやった恩も忘れ――!」
 伸び放題の髪。伸び放題の髭。族長の地位を退いてもなお、息子に大きな影を残し、彼の行動のまさに元凶だった狂人は、今、この私の前に血を吹きだしながら立っていた。
 なぜ、倒れない。
 妻を失ってから長きにわたり前線を退いていた狂人では、私の動きについてこられるはずもなく。切り裂いて血が噴き出すたびに倒れてほしいと願うのに、立っている。
「恩着せがましい言いようはよしてほしいものだね」
 私は使い物にならなくなった小刀を捨て、右手に空気の刃を生み出した。
「私を恨むのはお門違いさ。私がどれだけあんたたちに協力してやったと思ってる?あのお方の命令でなければ、この肌。薄汚いあんたたちに触れさせたりはしなかったんだ」
 いい思い、できただろう?赤の一族と対等に戦えたのは、私が知恵を貸してやったからじゃないか。
「でも、そうさね。これだけは言っとこうか。『あの方の思い通りに破滅してくれてありがとう』ってさ」
「うああああああぁぁぁああ!」
 叫びながら突っ込んでくる狂人に、私は引導を渡す。
「父さん――――!」
 真紅の輝きが現れた時、狂人は僅かに目を見張ったようだった。

「父さん、父さん!」
 倒れた男に駆け寄ったマオラの姿を目で追った和葉は、その周りの血だまりに折り重なるようにして転がる者たちを見て絶句した。
「――……ぁ」
 男が知らない名前を呟いてマオラの顔を掴んだ。マオラは彼を膝に抱いて、その手を掴む。
「そうよ、帰って来たの!ねぇ、父さん!」
 和葉の位置では男の顔が見えない。ただ、マオラの背に隠れて、彼は笑っているような気がした。やがて男の手がぱたりと地に落ち、マオラは肩を震わせる。
「帰って来たの――会えたのにっ……う、あぁ、父さん……!」
 男の亡骸をかき抱くマオラの横を影が走る。
 ジェイムは剣をジルの頭上に降りおろした。
「若ったら……おいたはいけませんことよ」
 女は何でもないことのように手の平の中の風で凶刃を受け止め、うっとりとほほ笑んだ。
「貴様が、貴様がぁ!」
 ジェイムの顔は憤怒に歪み、怒りが蒸気として湧いてくるかのようだった。和葉はその空気に入っていくことができず、剣を構えたまま様子を伺う。ついて来たヒビキとその他の赤の一族の精鋭も、今後の行動を図りかねているようだった。
 ジェイムとジルが攻防を繰り広げる中、ヒビキが和葉に早口で言った。
「左右に展開。あの女を捕らえる」
 和葉以外の者はすでに承知しているようだった。和葉が頷くと、小隊が二人を取り囲んだ。マオラも悲壮な表情で立ち上がり、それに加わる。
「袋の鼠だぜ、お嬢さん」
 ヒビキが言うと、ジェイムの怒りの剣を受け止めながら女が笑った。
「そうかしら?」
 不意に、ごう、と風の音がしたかと思うと、凄まじい勢いで天井が崩れ落ちた。
「ふふふふふ、あははははは!」
 女の哄笑が聞こえる。落ちてきた瓦礫で何人かが下敷きになる。和葉がヒビキに庇われながら身を起こすと、天井には暗雲が立ち込めてきていた。ぽっかりと空いた穴の周囲に、無数の蟲が群がっている。そのうちの大きな一匹が女のもとに降り、その背にのせた。
「それでは若、和葉ちゃん。御機嫌よう」
「待て!」
 足を引きずったジェイムが叫ぶ。女はそれを無視して、和葉のほうへ目を向けた。いや、正確には――
「まだしばらく、私のユエを預けとくよ」
「………」
 言葉をかけられたヒビキは唇をかむ。赤い瞳が複雑な色を含み、何を言うべきか考えているようだった。
「だけど、あんたたちは直ぐに思い直す。あの子はね、あんたたちが御しきれるような女じゃないんだ」
「あんた『たち』?誰に声をかけてるんだ?」
「ふん。いい気になって……」
 ばさ、ばさ、と羽蟲が羽ばたく。
「全てはシルヴィス様のため……。あんたもユエも、その他大勢も、大ばか者さ」
 その言葉を残して、女は空に飛び立った。


 蟲の一族は赤の一族に降伏し、戦いは一時の終焉を迎えた。
 マオラとジェイムの関係性を知らされていなかった赤の一族の中には、裏切り者と彼女を罵る者もいたが、大抵の者は理解を示し、辛い戦いを続け、遂には父親を失ったマオラの心を気遣った。ジェイムはジャオの一画で軟禁状態にありながら、これを『勝者の余裕』と鼻で笑った。
 煩かったのは外野の青の一族である。
「あまりにも手ぬるいやり方であるとサメギから報告を受けたのでな」
「だからって族長自らこのジャオまで来る?野次馬同然じゃん」
 サメギを伴って現れたスイゲツが尊大に言ったので、和葉が口を尖らせる。
「大鳥に乗れぬ王もどきがこの私に野次馬だと?」
 先日の慇懃無礼な口調は何だったのか。あの時、巨大な足で蹴られた和葉の姿を見て、彼はこう言った。
『無様な。はずれだな』
(厭味ったらしい!これならジェイムみたいにただ傲慢なだけのほうが性格的にまだまし!)
「時に、王もどき。お前のキングメーカーは魔王並みの魔力をもつと言うが、今は何処にいる?」
「セレズニアだよ。本当は直ぐにでも加勢に行きたいんだけど……」
 セレズニアの情勢は混乱を極めているらしく、伝令もままならないありさまだ。そんな中、見るからにか弱い雅がどんな危険な目にあっているか、和葉は心配でたまらなかった。
 しかし、闇雲に大軍を率いてセレズニアに駆けつけ、彼らの作戦を邪魔してはいけないと、マオラもユエも慎重な姿勢だった。
「セレズニア。なるほど……」
「スイゲツも雅に興味があるの?」
 真魔族であり魔王並みの魔力と聞くと、魔族は必ず驚いて興味を抱く。草原の魔女も和葉の身の安全が確認された途端、独断で隊を離れてセレズニアに行ってしまった。和葉が雅の身の安全を危惧する要因の一つである。
「魔力からっけつの王もどきと魔王レベルのキングメーカー。こんな逆転現象は初めての事例だからな。力関係で言えばお前がキングメーカー、お前のキングメーカーが王だと選ばれるはず。緑竜のお考えがわからん」
 スイゲツは見た目よりもよく喋る。後ろのサメギがげんなりしていた。
「お前が王に選ばれたというのも気に食わん。我らの魔王はこんなのではないのだ」
「こんなの!?」
「良い表現が思い浮かばない。サメギ」
「……。冷静で美しく、どの魔族よりも魔法に秀でる存在。それが我らの魔王」
 サメギが言い、考え込んだ。
「お前のキングメーカーに会ってみたい」
「同感だな」
 青の一族二人に寄ってたかって無能呼ばわりされたも同然の和葉は、顔を引き攣らせた。傍で空気のように様子を伺っていたヒズメが眠そうに眼を擦りつつ、反論する。
「王印が和葉を選んだんだ。サメギ兄貴だって見ただろ?あのすごい光。和葉が王だって!しつこいんだよ、あんたら」
「ヒズメ……」
 あんなに和葉に反発していた彼女がそんなことを言ってくれたので、和葉は感動して目を潤ませてしまった。
「恋は盲目というやつだな」
 スイゲツが鼻で笑った。ヒズメの頬に朱が走る。
「ち、ちげーよ!バカ!」
 その時、唐突に和葉の視界が暗くなった。
(あ、あれ――?なんだか、すごく、)
「おい、和葉?」
 眠い。

―――――

 気が付くと、和葉は仄明るい空間にいた。いつもの夢の空間だ。
 金髪の王子様が和葉の目の前に立っていた。
「王子様……?あれ、私、寝てたっけ」
 王子様は無言で和葉を見つめ、目を伏せた。
「私、何をしていたんだっけ……」
「和葉さん」
 和葉の思考を遮って、王子様は綺麗な声で名を呼んだ。和葉はふと、思いつく。
「王子様の声、誰かと似てる」
 王子様の目がわずかに見張った。
「そんなわけありません。似ているところなんて、どこにも……」
 王子様は言ってから、首を横に振った。
「今日、貴女を呼んだのは、貴女のキングメーカーの危機を知らせるためです」
「え?雅?」
「彼女の力はあまりに強い。そして庇護する者は少ない。力を求めるものにとって、彼女は狙いやすく、仕留めやすい」
 和葉は何のことかわからない。
「強いのに?」
 どきどきと心臓が高鳴った。――怖い。
「強いからこそ孤独。彼女には貴女の存在が必要です」
「私は雅の役に立てる?」
「貴女にしかできない。だからこその『背中合わせ』です」
 王子様の口調はいつになく断定的で、和葉の不安を煽ってくる。
「『妖蟲』『仮面の道化師』『歌姫』、『背中合わせの君』――『太陽と星』」
 王子様は詠うように言った。
「彼らの孤独を、貴女の言葉で救ってください。……どうか、」
 ぽろり、と王子様の目から涙がこぼれた。
「何も知らない貴女の、何にも飾られない言葉で、僕たちを救ってください」

―――――

 目を覚まして身を起こすと、誰かが和葉に抱き付いた。
「え、あれ?ヒズメ?」
「馬鹿野郎!無理してたなら、なんで言わなかったんだよ!」
 抱き付いたまま喚くヒズメの肩は震えていた。寝かされていた寝台の周りには、ヒビキやユエ、マオラがいた。
「私、倒れたの?」
「ええ。――過労よ。二、三日休んどきなさい」
 ユエが呆れたように言い、ヒビキが溜息をつく。
「そういや、お前。この前まで一般人だったんだもんな。気付かなくてごめんな」
「戦いに慣れていないのは知っていたのに……ありがとう、和葉」
 そう言ってマオラは和葉の前に跪いた。
「ま、マオラ?」
「我ら赤の一族、新王和葉に忠誠を誓います」
 ぽかん、と和葉は口を開けた。
「貴方の胆力、戦闘力、決断力は称賛に値します。まだまだ若く、頼りない部分はありますが、我ら赤の一族が全力でサポートさせていただきます」
「あ、あの、」
「王に無理をさせるのは一族の恥。今後はこのようなことがないよう配慮いたしますので、どうか我らを貴方の傘下に入らせてください」
「え、えーと」
「許すって言え」
 ヒズメが和葉に抱き付いたまま言った。
「皆で話し合って決めたんだ。未来永劫あんたに従うって」
「未来永劫!?大げさすぎるよ!」
 ユエが和葉の頭を叩いた。
「今さら何を言ってるの!受けなさい。じゃないとバラすわよ」
 小刀をちらつかせながら言われては、逆らえない。何より、嬉しかった。
「ありがとう、マオラ。私、嬉しい」
 素直にそう言うと、マオラは微笑んで立ち上がった。そのまま、ヒズメごと長い腕で抱きしめる。
「本当に感謝してる。ジェイムを止めてくれてありがとう」
 マオラの言葉に和葉は、あ、と声を上げた。
「ジェイム、確か西の建物に軟禁されてるんだよね」
「?ええ」
 マオラとヒズメが離れた隙に、和葉は寝台から立ち上がった。
「あ、おい。まだ寝てろよ」
「平気。それより、やらなきゃならないことがあるの」
 和葉はヒズメの制止を振り切って、部屋を出た。


 未だ子供だったとき、夢で出会った年上の少年。彼は自らを和葉と名乗り、ジェイムに言葉をかけた。
『傍にいて、君を守ってあげる』
 その言葉がどんなに嬉しかったか。誰にも頼れぬ己の心に染み入る純粋な優しさに、どれほど憧れたか。彼にかけられた言葉を思えば、母も姉も必要なかった。
 だが、所詮は夢の中の存在。妄想の産物。そう思えば、嬉しい気持ちも一息に消え失せ、ただ虚しいばかり。
 夢で終わりたくなかった。この腕で感じられる距離に彼が欲しかった。もう一度言葉をかけてほしかった。
「和葉」
 彼を手に入れてこそ、本当に孤独は終わると思った。夢の中の存在を現実で探すことの無意味さを知っていて、ジェイムは少年を攫っては確かめた。
 ――お前は、俺の和葉か
 ――俺の傍にいてくれるか
 大抵は抵抗する。その都度切り伏せ、また新しい少年を探す。偶には傍にいてくれる少年もいた。だが、結局は和葉ではなかった。
 いつのころからか、彼は、本当は彼女ではないのかと思い始めた。
 少年の姿をした少女を探した。赤の一族にはそんな少女が沢山いるので、赤の一族に狙いを絞った。
「父上」
 父の愛した赤の一族。父の憎んだ赤の一族。
 母を失って自暴自棄になった父は狂い、ジェイムを目の敵にした。その父が、最後には血だまりの中、赤く染まって息絶えた。
(俺は間違っていたか)
 父は最期の瞬間、ジェイムではなくマオラを見た。母の面影が多く残るマオラを見、満足そうに微笑んだ。
『帰って、来たか』
 父は最期まで母しか見ていなかった。
 涙など出ない。そんなもの、あの日に疾うに枯れ果てた。
 和葉が己の中の妄想でしかなかったと悟った日。夢から目覚めたあの朝。絶望の暁。
 蟲がざわざわと囁く。嘘をつかない彼らが傍にいても、心は冷え込んでいくばかり。
「ジェイム」
 あの声が聞こえた。閉じた瞼を上げると、目の前に黒髪。
「寝台で寝ないと、明日体ばきばきになっちゃうよ?」
 優しげな声。ジェイムは後頭部を壁につけたまま、身じろぎせずに彼女を見た。
 あの夢と、寸分違わない姿がそこにあった。
「……お前は、何故いつも、俺が絶望しそうになった時に現れる」
 あの時は来なかったくせに。あの朝、早速約束を違えたくせに。
「何故、傍にいない。何故、消えた」
 この執着。傲慢ゆえの身勝手な想い。夢の中で交わした口約束など、守られるわけがないのに。何故この口はこのような恨み言ばかりほざくのか。
「何故、もっと早く俺を見つけに来てくれなかったんだ。あんなに探したのに……っ」
 殺してきた少年が喚く。体にまとわりついて離れない。消えろと言っても消えてくれない。この罪は死ぬまで許されない。
 ――だって傍にいろと言っただろう?
 ――嬉しいんじゃないのか、こんなに僕らに愛されて
 見るのはそんな悪夢ばかり。やめろ。言うな。
「お前のせいで、俺は罪人になったんだ……!」
 声が震えた。
 暖かな腕がジェイムの頭をかき抱く。
「傍にいるよ。私が守ってあげる」
 ああ、まるで。
「夢の、続きのようだな」
 許されるのだろうか。許されてもいいのだろうか。罪人の己がこの愛しい存在の傍にいることを誰かが許してくれるのなら。
「もう、消えるな。和葉」
 尊大にしか言えないこの俺の傍にいてほしい。
「消えないよ。夢じゃないんだから」
 和葉が笑った。和葉が笑えば、己も笑うことを許される。
「ジェイム。私はこれから、セレズニアへ向かう」
 己から離れた和葉が言う。
「蟲の一族の力が欲しい。一緒に来てくれる?」
 裏切り者と呼ばれるかもしれないけれど、と付け足されるが、ジェイムの答えは一つだった。
「――行こう」
 だからもう、俺の傍を離れるな。
 どこまでも無責任なお前に、忠誠を誓おう。

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