妖蟲

  3


 う、うう、ひ、うう、
 そこは暗闇の空間だった。いつもの光に満ちた空間に慣れきっていた和葉は、一瞬、これが夢であるということに気づかなかった。それに気づかされたのは、慣れない空間に浮かぶ、見慣れた金色の光を見つけた時だ。
「これは、夢?」
「ええ、そうです」
 金髪の王子様は和葉に背を向けていた。和葉は不安になる。
 うええ、えええん
「誰が、泣いてるの?」
 子供の泣き声だ。間違っても、王子様の嗚咽ではない。
「『孤独』が泣いているのです」
「こどく?」
 王子様は和葉を振り返り、悲しげな眼差しを向けてきた。
「彼は孤独な王様。残されたことに耐え切れず、捨てられたことを信じ切れず、泣いて救いが来るのを待っている。まるで、――のようだ」
 彼の言葉は時々、特定の場所が聞き取れないことがあった。和葉が聞き返そうとするより先に、王子様は暗闇の先を指さした。
「貴女は、彼を救いたいと思いますか?」
「……?」
「彼を救いたいと思った結果、多くの犠牲が出るとしても構わないなら、このまま進んでください」
「彼って、誰?」
 ひぃ、うう、ええーん、ええ、――しい
「!」
 たすけて、はやくきて。おかあさん、おねえちゃん。くるしいよぉ
「っ……」
 子供の声が一層悲痛になり、和葉はとっさに体が動いた。背中に、寂しげな王子様の声が降りかかる。
「それが、貴女の答えです。どうか、自分を責めないで……」
 和葉の目に、暗闇の中蹲る子供の姿が見えた。和葉は彼に近寄って、しゃがみ込む。彼は小さな手で涙を擦りながら、突然現れた和葉に戸惑っているようだった。
「どうして、泣いてるの?」
「あ……おとうさんが、ぼくをなぐるんだ」
「え!?なんで?」
「ぼくがうまれたせいで、おかあさんとおねえちゃんがうちからでていってしまったから。だから、ぼくはまいにちおこられるんだ」
 和葉は頭に血が上るのを感じた。
「なに、それ!そんなの、君が悪いわけじゃないじゃない。単に愛想つかされたんでしょ!」
「?」
 子供は和葉の言葉の意味をよくわかっていないようだった。
「ぼくがわるくないなら、どうしておかあさんとおねえちゃんはもどってきてくれないの?」
「あー……」
 和葉は視線を泳がせた。勢い込んで駆け付けたものの、こんなに重い状況であるとは想像していなかった。何と言ってあげたらいいのかわからない。
「ぼくはいいこにしてなぐられてなきゃならないんだ。じゃないと、おかあさんもおねえちゃんももどってきてくれないから」
「そんなことないよ。殴られなくたっていいんだよ」
「どうして?」
 和葉は考えた。考えて、一つの結論に達した。
「私が助けてあげるから。君のお父さんに喝を入れて、もう君を殴らないように言ってあげる!そんでもって、お母さんとお姉ちゃんを連れてきてあげる」
「そんなこと、できないよ。おかあさんとおねえちゃんは、ぼくらでははいりこめないところにすんでいるんだから」
「えー?うーん、それじゃぁ……」
 子供の黒い瞳が和葉を見上げた。
 ――『孤独』が泣いているのです
「私がお母さんとお姉ちゃんの代わりに傍にいて、君を守ってあげるよ」
「――え?」
「だから、泣かないで。傍にいるから。淋しくなんかないよ」
 子供の驚いたように見開かれた目から滲み出した涙が、頬を伝った。
「ほんとう?ほんとうに、そばにいてくれる?」
 和葉が頷くと、子供は嗚咽を堪え、和葉に抱き付いてきた。
「ぜったいだよ。ぼく、わすれないからね。やくそくだよ」
「うん。約束だね」
「おにいちゃんのなまえ、なんていうの?」
 お兄ちゃん。和葉は複雑な気持ちになりながら、答えた。
「和葉だよ。君は?」
「かずは?へんななまえ!」
 へへ、と子供はようやく笑みを見せ、和葉を見上げた。
「ぼくはジェイム。ジェイムっていうんだ。やくそくだよ、かずは。ぼくのそばに、ずっといてね!」


「!」
 身を起こした途端、衣擦れの音とともに「うん、」と女の悩ましい声が聞こえて、ジェイムは現実を取り戻した。
「どうなさったのです、若……」
 ジルがジェイムの肌をなぞって、頬に手を当ててきた。ジェイムはその手を握り、口づけた。
「若?」
「懐かしい夢を見た」
「あら……どんな?」
 ジェイムは目を伏せ、思い出した。
「昔、死にたくなるほどの苦しみを味わっていた頃に、俺を生かしてくれた約束の夢だ」
「女性の夢?」
「ふ。――どうだろうな」
 誤魔化したジェイムの態度をジルは不服と思ったのか、甘えた様にすり寄ってきた。
「ひどいですわ。私というものがいるのに。――ん」
「それとこれとは話が別だ」
 ジェイムは言い、再び夢の中に落ちていった。

―――――

 赤の一族の精鋭部隊を率いて、和葉はジャオへたどり着いた。昨夜の最後の野営で見た夢を思いながら、和葉は馬上で剣を抜く。
「草原の魔女、どうして私について来たの?雅に会いたいんでしょ?」
「ふふ、だって、あの子はまだ死なない定めだもの」
 雅とどんな関わりがあるのか知らないが、草原の魔女は事あるごとに雅について問うてくる。なので、砦を守りきったあと、直ぐに雅に会いに飛んでいくのかと和葉は思っていた。
「赤の一族ぅぅぅ!」
 蟲兵と切り結び、苦手な魔法で焼き払う。近くで戦っていたマオラが叫んだ。
「蟲兵ども!我らはこの戦いを終わらせるために来た!」
 ざわ、と蟲兵たちが騒めいた。
「今こそ魔族の王を選定し、服従の意を示そう!『背中合わせの君』か『妖蟲』、勝ったほうに我らは従う!」
「な、なにを、」
「私は『妖蟲』ジェイムに、一対一の決闘を申し込む!」
 和葉が言う。
「無益な戦いはしない。挑んで来る者は来い!」
「……っ」
「若が出るまでもない!我ら蟲兵が、貴様を葬る!」
 和葉は向かってくる敵を切り伏せた。ヒビキが後ろで口笛を吹く。
「強くなったな」
「あ、あたしだって……!」
 ヒズメが飛刀を構えて和葉の横に来た。和葉の隙を突こうとする者を次々に倒していく。
「ありがと、ヒズメ!」
「あんたの為じゃないって!」
 ヒズメが顔を赤くして怒る。次第に、蟲兵は和葉の勢いに押されて後退していった。
「く、くそっ――」
「我らが全滅しても、若には指一本、」
「下がれ」
 低く、唸るような声が聞こえた。上空から蟲に乗って現れたのはターバンを巻いた男。
「若!何故前線へ!」
 蟲兵たちがどよめく。和葉は剣を握りなおして、警戒を強めた。
「下がれと言っている。役立たずの貴様らが束になってかかっても、『背中合わせの君』には勝てないとわからんのか」
「っ、若」
 久方ぶりに間近で見るジェイムは、相も変わらず冷酷な瞳をしていた。
(昨夜の夢に出てきた男の子、名前をジェイムって言ってた。居なくなってしまったお母さんとお姉ちゃんは、マオラとそのお母さんのことなんだろうか。だとしたら――)
「ようやく会いまみえることができたな」
「夢であなたを見た」
 ジェイムは一瞬目を見張ったが、すぐに表情に笑みを浮かべた。
「ほう。熱烈な告白かと言いたいが――」
「………」
「ようやく、思い出してくれたようで嬉しい」
 和葉は剣を強く握った。
「あなたにどんな過去があろうと、あなたのしたことは許されないこと」
「俺はお前との約束を果たすため、少年を攫って回った」
「そして殺した。私はそんなつもりじゃなかった」
「だから自分は悪くない、と?」
 ジェイムの瞳は夢と同じ色をしていたが、輝きは別物だった。子供のころ、和葉と約束した時の輝きを彼は失っていた。
(私が消してしまったんだろうか。彼の光を)
 己が余計なことをしなければ。余計な希望を持たせなければ、彼はこんな風にならなかったのだろうか。彼のしてきた罪が己の行動によって引き起こされたものなら。
「私は、あなたを止める」
「止める?今さら?」
 失笑するジェイムに向け、和葉は駆けだした。
「一騎打ち、しよう!」
 剣と剣が打ち合い、辺りに金属音が響き渡る。初めは耳障りで恐ろしくて、慣れることなどないと思っていた音。和葉はそれを気にせずに、身を引いて追撃を避けた。
「はあっ」
「ふん!」
 赤の一族を始め、蟲兵たちも二人の戦いを見守り、一挙一動に息をのむ。
「危ない!」
 ヒズメが悲鳴を上げた。下段からジェイムの放った一撃を和葉は目いっぱい胸を反らして避けたが、足払いを受けて大きくバランスを崩す。背を地面に叩きつけられたが、和葉は咳こむ暇なく身を起こした。頭上に降って来た刃をやっとのことで受け止める。
「弱いな」
「!」
「もっと必死にならないと、殺してしまうかもしれないぞ」
「っ、真剣に、戦えぇ!」
「!?」
 和葉は腕に魔力を纏い、ジェイムの剣を押し返した。ジェイムの剣が手を離れ、彼の後ろに飛んだ。目を見開くジェイムの胸を蹴り上げ、その勢いのまま立ち上がる。よろめいたジェイムの喉元に剣を突きつける。
「はぁ、はぁ……」
 辺りが静寂に包まれた。その場の皆が、和葉の言葉を待っている。
「私の勝ちだ!」
 赤の一族の鬨の声が響いた。
 和葉は周りの声を無視して、地面に膝をついた。同じく膝をついていたジェイムと目が合って、見つめあう。
「はぁ、涼しい顔して……嫌味なの?」
「……。はっ、まさか、負けるとは」
 ジェイムの表情がゆがんだ。和葉が何か言おうと口を開いたとき、非情な台詞が横合いから降った。
「その男を殺せ、和葉」
 冷徹に言ったのはサメギだった。和葉は首を横に振る。
「はぁ、は、――殺さ、ない」
「なに?」
 サメギの眉が寄り、訝しげに眼が細められる。
「お前は、何のために戦ったんだ」
「ジェイムを止めるため。殺すためじゃない」
「甘いことを!」
 サメギはいつも怒ったような顔をしているが、このように怒鳴るのを聞くのは初めてだった。
「殺せ!王になりたくないのか!」
「嫌だ!殺さなくたって、ジェイムが王権を放棄すればいいことでしょう?」
「そんなに簡単なことじゃない」
 ヒビキが静かに言った。
「王としては確かにそうだ。だけどな、蟲の一族の族長としてはこれだけじゃ終わらない。このまま殺さないで、赤の一族が満足するとでも思うのか?」
 ヒビキは見たことのないほど冷たい顔をしていた。和葉は怯んだが、退かなかった。
「殺したら終わらない。蟲兵の顔、見てよ!ジェイムを殺したら、きっといつの日か、この時の恨みが赤の一族を不幸にする。私、間違ってる?」
「………」
「ねぇ、マオラ!――あ」
 助けを求めてその姿を探すと、マオラはすでに和葉とジェイムのすぐ傍に立っていた。力が抜けた様に地面に両膝をついて、ジェイムの顔を覗き込む。
「ジェイム」
 和葉にはジェイムが戸惑っているように見えた。
「やっと、――」
 マオラは泣いていた。言葉を詰まらせ、ようやく一言口にした。
「ただいま……――っ」
 ジェイムの腕がマオラを捕らえる。二人は何も言わず、固く抱き合った。
 勿論、その場にいた和葉以外の人間は呆気にとられて困惑したが、その動揺もすぐに打ち壊される。
「若!」
 悲鳴のような呼び声だった。尋常ではない様子の蟲兵が頭上から降りてくる。
「若、若!」
「……何度も呼ぶな」
 ジェイムは名残惜しげにマオラから離れて、蟲兵に向き直った。
「落ち着け。何事だ」
「本殿で事件が!はぁ、はぁ……お父上が、先代が、」
「父上がなんだ」
「あの女に、ジルによって本殿内部は壊滅。先代はジルと戦って重傷を負っておられます!けれど、今ならまだ――」
 蟲兵に皆まで言わせず、ジェイムとマオラは駆けだした。その後を和葉も追走する。
「おい、何が起こってんだ!」
 和葉を放ってはおけないと思ったのか、ヒビキと少数の精鋭が後を追ってきた。
「ジェイムとマオラのお父さんが大変なの!」
「はぁ!?姉さんとジェイムの父親!?――姉さんの!?」
 驚くヒビキをよそに、本殿へとたどり着いた和葉たちが見たのは、この世のものとは思えない凄惨な光景だった。

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