妖蟲

    1


 その日、砦はいつにもまして殺気立っていた。セレズニアでシャイオン軍勢の監視を行っていたシルヴィスから、砦に危機が迫っているとの連絡が入ったのだ。
 シルヴィスの執務室では、ユエ、ヒビキ、マオラ、サメギ、そして和葉の五人が集まり、対策を考えていた。
 和葉は岩で縁取られた窓から身を乗り出し、じっと遠くを見つめた。
「何か見える?」
 マオラが焦ったように問う。和葉は首を横に振った。
「シルヴィスの情報では、シャイオンのチェリック王子が蟲兵と合流してこちらに向かっているようだけれど……そう。なら、まだ猶予はあるのね」
「あいつ、うまくいっ……」
 ヒビキが何かを言おうとしたが、ユエがその腹を殴りつけた。
「ぐえ!」
「……。足止め失敗ね」
(……そっか。シルヴィスと雅は、馬鹿王子の足止めをするために、セレズニアに行ったんだっけ)
 任務失敗ということだ。和葉は不安に駆られた。
「雅は大丈夫かな」
 知らず、情けない声を出していたらしい。ヒビキが慰めるように和葉の頭を軽く叩いた。
「ちゃんと報告してくるくらいだ。大丈夫だろ。シルヴィスが一緒だしな」
 シルヴィスは強い。赤の一族や筋骨逞しいヒビキと比べると聊か貧弱に見えるが、風のごとく動き、ユエが開発したという銃や得意の暗器を扱う姿はまさに忍者――とは言いすぎか。
(あんな派手な容姿の忍者はいない、はず)
「そんなことはどうでもいいのよ」
 ユエが非情に言い放ち、どん、と目の前の執務机に何かを置いた。
「何?それ」
 それは並々と液体の入った瓶だった。口はコルクで塞がれている。白ワインみたい、と和葉は思い、首を傾げる。
「お、酒か!?」
「馬鹿。飲んだら死ぬわよ」
 ユエが再びヒビキの腹を殴る。ユエが辛辣なのはいつものことだが、それにしてもヒビキに対しては扱いが酷過ぎるのではないかと、和葉は思う。ただ、ヒビキはユエのそんな態度などどこ吹く風で、あっはっはと豪快に笑って流すのだ。むしろ、嬉しそうにも見えるのが不思議だ。
「あれができたのね」
 マオラが心得たように瓶を見つめてそう言った。隣のサメギも無言ながら、瓶の中身がなんなのか知っているようだ。
「これはユエ様特製殺蟲剤『コバエ☆バタンキュー』よ」
「………」
 和葉は賢明にも、言いたいことは胸の中に留めておいた。ユエの頭がおかしいのもいつものことだし、発明品がなんだか微妙なのもいつものことだ。
「名づけだっせー。――ぐは!」
 正直者のヒビキが殴られるのもいつものことである。
「コバエ……?アゲハ蟲のことか?」
「違うわよ。イモ蟲のことよ」
 マオラとサメギは小声で何やら言い合っていたが、ユエの眼光に射られて背筋を正す。
「私が提供した情報で作ったものよね!素晴らしいわ!」
「褒め言葉は効能を見てから言ってほしいわね」
 相変わらず憎まれ口をたたきながら、ユエは胸をそらした。しかし、サメギの漏らした言葉に顔色を変える。
「それで、どうやってこの液体を蟲の体に振りかけるんだ?それとも、地面に撒いただけで効果があるのか」
「!」
「あー、シルヴィスもいないしな」
「シルヴィスって飛べるの?」
 それは知らなかったと和葉が驚くと、ヒビキは笑っただけで誤魔化した。
「どうなの?ユエ」
「……あたしとしたことが」
「――まさか、」
「シルヴィスがいないこと、失念していたわ」
 室内が静寂に包まれた。
「どうすんだよ。お前、そんなに風魔法が得意なわけじゃないだろ」
 ヒビキが頭をかきながら言った言葉に、マオラが声を上げた。
「それじゃあ、風魔法が得意な奴を連れてくればいいってことよね」
「目星があるのか?」
 マオラがサメギに目をやった。サメギは沈黙を保ったまま、つい、と目を反らす。
「連れて来たいなら、勝手に連れてくればいい。俺は嫌だ」
「あんたじゃなきゃ釣られてこないでしょ。筋骨隆々の赤の一族の男が言ったって、鼻で笑われるだけ――」
 マオラとサメギの視線が己に移ったことに気づき、和葉は嫌な予感がした。
「え、なに?」
「ヒビキ、ユエ。この子、借りてもいいかしら?」
「いいわよ」
「えー!?簡単すぎない!?」
 どうでもよさそうに己を突き放すユエに異議申し立てを行おうとするが、大笑いを始めたヒビキに止められた。
「ああ、あいつを呼ぶんなら、和葉が適任だろうなぁ。ジェイムといい、あいつといい、お前には嫌な役目ばっか押し付けるな。ごめんな!」
「爽やかに謝らないで!」
 いったい何をさせられるのだ。和葉はマオラの力強い腕に捕らわれて引きずられながら、いつか再会する雅にどんな愚痴を聞いてもらおうかと考えた。

 草原を馬で北東に一時間ほど走らせた頃、和葉とマオラは目的地に到着した。草原にぽつんとたたずむ布製の建物――テントのようだ――の入り口らしき布をマオラが遠慮する様子もなく捲ると、内側から声がした。
「ちょっと。アタシの聖域に女が勝手に入ってこないでくれます?」
 和葉は、その時点で違和感を覚えた。マオラはその声に御座なりに答えると、和葉の腕を引っ張ってテントの中に投げ入れた。
(投げたー!!ひどい!)
「その子ならいい?」
「うん?」
 ぼすん、と硬い体にぶつかり、和葉は確信した。和葉を抱いて顔を覗き込んだその人物の顔は女性的に整っており、濃い化粧で覆われていたものの――。
「あーら!かわいい男の子!アタシにこんな土産を持ってくるということは、何かご依頼かしら?」
「そうよ。草原の魔女」
 草原の魔女、と呼ばれたその人は、優雅に二人をテントの中に招き入れると、怪しげな書物や水晶玉の乗せられた小さな円卓の周りに座らせた。
 草原の魔女の隣に座らされた和葉は身を固くして、できるだけ彼女の顔を見ないように心掛けた。
「ふぅん。蟲対策に殺蟲剤とはね。理に適ってはいるけれど――」
 事のあらましを聞いた草原の魔女は、首を傾げた。
「アタシの水晶玉には、蟲以外の敵のほうが手強そうな予感が出てるのよね」
 そう言うと、卓の上の水晶玉にふぅ、と息を吹きかける。水晶玉の中に、黒い靄が浮かんだ。
「死の象徴。厄介な者も絡んできそう。たとえば、――ウィンダー家」
「ウィンダー家ですって!?」
 声を荒げたマオラに、和葉は目を白黒させる。
「うぃん、なに?」
「ウィンダー家よ。全ての魔法に対応できる、全属性適性がある真魔族の中でも、特に危険な一族とされているわ。不老不死の実験を行っているとかいう、嫌な噂もある」
 全ての魔法を扱える真魔族。魔族の中の魔族と呼ぶべき存在。研修期間でのユエの授業で聞いたことがある、と和葉は思い出した。
(確か、雅も真魔族だって、ユエは言ってた)
「赤の一族。蟲の一族。セレズニア。シャイオン。ウィンダー家。それに、まだ、まだ……。混乱するわね。面倒くさそう。アタシはパスしようかしら」
「ちょっと!ここまで来たのに、何の収穫もなく帰れないわ!わかった。何でもいいから魔女としての助言を頂戴」
「ええー?そうねぇ……。ん?」
 草原の魔女は不意に和葉の右手を握って、甲の文様を見つめた。以前に手袋が燃えきれたきり、隠す必要もなく晒されているそれは、草原の魔女の興味をそそったようだった。
「これは、『背中合わせの君』……?」
「うん。知ってるの?」
 知ってて当たり前か、と和葉は尋ねてから思った。王印の文様は以前の緑竜の円卓で浮かび上がったものが再び浮かび上がることも少なくないらしく、多くの書籍で文様の分類がされている。『背中合わせの君』もそんなポピュラーな文様の一つだ。
「アナタのキングメーカーも、この世界にいるの?」
「え?うん。いるよ。雅っていうの」
 『この世界』と草原の魔女が言ったことに少し変な心地がした和葉だったが、素直にそう答えた。それを聞いた草原の魔女はいきなり立ち上がり、ぱちん、と指を鳴らした。
「気が変わったわ」
 指の音と同時に消えた周りの書籍や怪しげな物品の代わりに、一面の草原が視界に入り込む。マオラと和葉は草原の真ん中でぽつんと間抜けに座り込んだまま、草原の魔女を見上げた。
「ほら、行くわよ!早く支度しなさいな」
「え、ええ。いきなりどうしたの?」
 草原の魔女はずんずんと二頭の馬を目指して歩き出し、二人を振り返ってにやりと笑った。
「必ず勝つわよ!草原の魔女が絡んで負けるなんて許さないわ。そして――」
「そして?」
「勝った暁には、アナタのキングメーカーの雅ちゃん、アタシに頂戴」
 和葉は一瞬、何を言われているのかわからなかった。その言葉を理解した後、和葉はとりあえず、叫んだ。
「オカマに雅は渡せないよー!!」
 すかさず出てきた手に殴られた和葉に、マオラが小さな溜息をこぼした。


 和葉とマオラが草原の魔女を連れて砦に戻った時、すでに戦いは始まっていた。
 上空から迫る蟲兵を炎で焼き、命からがら砦に入り込むと、奥からヒズメが大袋を持って駆けてきた。ヒズメは息を切らしたまま大袋を草原の魔女に押し付けた。
「状況は?」
「上空に羽蟲兵、砦の岩壁に陸蟲兵、その周りをシャイオンの兵たちが取り囲んでます」
「すでに籠城状態ね」
「すみません。姉さんが帰るまで持ちこたえようとしたんですが、地中から滅法強い変な軍隊が押し寄せてきて――あいつら、何度切っても打っても死なないんです」
「……」
 草原の魔女が眉を寄せた。大袋を片手に、和葉の首根っこを?まえる。
「その軍隊、対応できるのはこの少年だけよ。どこにいるの?」
「え?蟲兵とシャイオン兵の間に、うじゃうじゃといるけど……」
「よし。行くわよ和葉」
「え、対応できるって、私やり方わからないよ!?」
「ユエには報告しておくわ。魔女、頼んだわよ」
 任せときなさい、と答える草原の魔女の手で、和葉は砦の窓から身を投げた。
「ぎゃああああああ!」
「舌かむわよ!」
 ぶわ、と風が吹いた。動転していた和葉は、己が落下していないことに気づいて落ち着きを取り戻す。
「う、浮いてる……」
「これ、蟲兵目がけて投げなさいな」
 同じく宙に浮いている草原の魔女が、大袋の中の半分を和葉に渡した。和葉は言われた通り、砦の壁に張り付いて侵入しようとしている蟲に瓶を投げつけた。その軌跡を追尾するように、草原の魔女の生み出した風が追っていく。
 風が瓶を割り、蟲の体に降りかかった。ぼとぼと、と蟲たちが壁から剥がれ落ちていき、赤の一族が歓声を上げているのが聞こえた。
「さすが、ユエの珍発明品!」
 その通りだが、大きな声でそんなことを言うと後が怖いのではと和葉が思うより先に、ごん、と何かを殴りつける音が聞こえた。
「その調子よ!蟲の死骸で砦を固めて!」
 ユエの声が聞こえた。和葉は夢中で瓶を放り投げる。
 ぼとぼと、ぼとぼと。次第に砦は、蟲の死骸の山でより強固になっていった。
「うえーきもちわるい」
「薬はこれで最後ね。中々、数を減らせたわ」
「これからどうするの?」
「アナタのその王印を使って、あのうじゃうじゃいる黒兵を倒す」
 切っても殴っても効かない者たちのことだ。和葉は不安になって草原の魔女を見た。
「王印って。この文様にそんな力があるの?」
「あるわ。アナタはまだ、知らないだけ」
 羽蟲が襲ってくるのを炎の魔法で焼きながら、草原の魔女はこともなげにそう言い、和葉を伴って黒兵の上空まで飛んだ。
「ひー!」
「情けない声上げるんじゃないの!」
(この人、オカマのくせに男らしい……)
 勇ましく羽蟲を蹴散らす姿はまさに戦士である。
「王印は王とキングメーカーが揃ってこそ力を発揮するのよ」
「え、じゃあ、雅がいないとダメってことでしょ」
「いーえ。今回はアタシがいるから、微力だけど協力するわ」
 そう言って、草原の魔女は己の左手を晒した。
「この『背中合わせの君』で」
 白く縁どられたそれは和葉の『背中合わせの君』によく似ていた。だが、和葉のそれが、狼が背中合わせになっている構図であるのとは違って、草原の魔女のそれは小さく、猫が背中合わせになっている構図のように見えた。
「ふふ。懐かしい。あの子とも、こうして……」
 草原の魔女が笑った。何かを思い出すような、切なげな微笑みだった。
「アタシの手の平とアナタの手の平を合わせて念じて。邪な力で蘇るあれを、払う力を願って」
 和葉の右手の手の平と草原の魔女の左手の手の平が合わさり、辺りに白い光が満ちた。

―――――

 空に白い文様が浮かぶ。狼と猫が背中を合わせた奇妙な構図だ。
「先代『背中合わせの君』保持者が、近くにいたんだ。誤算だったな」
 己が引き連れてきた黒兵たちが白い炎に焼かれ燃え尽きていくのを眺めながら、チェリックはぼやいた。
「また、作らなきゃ」
「化け物が化け物を生む、か」
 羽蟲に乗って上空から様子を見ていたジェイムがわざわざ降りてきて皮肉を言う。
「あの男……和葉と手を握り合って……。生かしてはおけんな」
「あれ、男なの?目がいいね」
 目を凝らしたが、チェリックの目には髪の長い人物という特徴しかわからず、女にしか見えない。
「和葉ちゃんは男の子にしか見えないし。君って、どうしてあんな子が好きなの?」
「好きとか嫌いとかではない。あれは俺の傍にいると言った。その約束を思い出させなければならないだけだ」
「傍にいる、ねぇ……」
 白い炎がこちらにまで降りかかるが、それは不思議に熱くなく、蟲たちも平気な様子で蠢いている。王印の力は邪な力で生み出されたものにしか作用しないのだ。
(それなら、僕は?)
 己は邪な存在ではないのだろうか。不老不死の妙薬を飲みほした己が穢れていないなど考えられない。むしろ、そうでなければいけない。
「いい加減だね。――神様って奴は」
「穢れた者を殺せただけで何ができる。奴らは袋の鼠だ」
 ジェイムが嘲笑した。チェリックも口端を上げる。
「こういうの、僕、得意なんだ」

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