二人の狂人

  5


 無事に王宮へと招かれたシルヴィス一行並びに他の芸人衆は、二つの部屋を与えられた。男部屋と女部屋である。男部屋は王宮の片隅、多くの使用人が住み込みで働く一角に与えられたが、何故だか女部屋は王宮の離れにぽつんと建つ離宮に用意された。
 心配そうな緋鶯に笑って答えてから、雅は女芸人たちが意気揚々と女部屋に向かうのに付いていった。
「ねぇ貴女。何も披露せずに招かれたけれど、何かコネでもあったの?」
「ええ、まぁ」
 好奇心旺盛な女奏者に話しかけられ、雅は曖昧に答えた。実際、コネなどあったものではないが、肯定したほうが追及されずに済むと思った。
 思った通り、奏者はふうん、と鼻を鳴らしただけで興味を失ったようだった。
「あーら、下賤な民衆の中に紛れて一際頭の悪そうな女がいると思ったら、貴女でしたの」
 雅は無視した。聞き覚えのある声だが、別に己のことと言われたわけではない。
 賢明な雅の反応に頬を引き攣らせた女は、他の女芸人衆を無視して進み出た。長い亜麻色の真直ぐな髪を結え、大きな瞳は好戦的に青く輝く。ドレスを纏った貴族然とした振る舞いと尊大な物言いは、まぎれもなくグリンクレッタ・ゲートリッジその人だった。
(なんでいるの……)
 睨み下げてくるグリンクレッタに呆れながら、雅は口を開く。
「岩に取り囲まれたあの『城』より、こちらの王宮のほうがよほど似合っていらっしゃる」
「ふふん、わかっているじゃない」
 雅の言葉の中の毒に気づいているのかいないのか、グレンクレッタは胸を反らした。
「わたくしはこの王宮の賓客ですの。チェリック殿下の生誕祭に是非とも参加して下さいと、王妃様に頼まれましたのよ。貴女のようにごみ蟲の如く必死に難関を潜り抜けなくとも良い特権があるのです」
 訊いていないことをべらべらと喋る貴族様に、雅はにこにこと笑って見せた。
「わたくしのような下賤な者にお声をかけて頂けて光栄ですわ。シヴィもきっと喜びます」
「なっ、」
 今度は明確に毒を見抜いたらしく、グリンクレッタは顔色を変えた。
「とんでもないことを!あの方は、貴女どころか、わたくしすら本当は言葉も交わせないはずの高貴な――」
 言いかけて失言に気づいたグリンクレッタは、ごほん、と咳をして誤魔化した。
「来なさい。殿下がおよびよ」

 グリンクレッタと口論しながら案内されたのは、第一区画の北城門に向かって東西に聳える双子宮のうち、西側の帝宮だった。
 帝宮の外装、そして内部は王宮と全く同じだったが、使用人が忙しく働いていた王宮とは違い、帝宮の内部は人の気配が希薄で、どこか寂しい印象を受けた。
「貴女方が、こんなにうまくいくとは思っていませんでしたわ」
 グリンクレッタは呟くようにそう言った。
「殿下が何故貴女を部屋に呼ぶつもりになったのか、全くわかりませんけれど。精々、わたくしの足を引っ張らないようにして下さいな」
 雅は何も問わなかった。いかに人の気配が希薄でも、どこに誰が潜んでいるかわからない。グリンクレッタがこれから何をしようとしているのかは気になるが、後でシルヴィスに問えば良いことだ。
「ここですわ。入りなさい」
 大きくも小さくもない、普通の扉。雅はそれを前にして、深呼吸した。
「何かあったら、助けてくれる?」
 雅が問うと、グリンクレッタは嘲笑した。
「わたくしを見損なわないで頂けます?あの方の利益にならないことを、わたくしがすると思いますか」
 雅は安心して扉を叩いた。グリンクレッタはいけ好かなくて信用ならないが、シルヴィスの意に沿わないことは絶対にしないと確信できた。
 扉が空くなり、腕が千切れそうなほどの力で引き寄せられ、雅は何かに全身を叩きつけられた。無情にも、背後で扉が閉まっていく音がする。
「遅い。僕を待たせるなんて、本当に度胸があるんだから」
 叩きつけられた壁は温かく、雅を抱擁した。
(ど、どういう状況……)
 何故か、雅はチェリックの胸に抱かれていた。
「申し訳ありません。恐れ多くて」
「まぁいいか。たまには待たされるのも楽しい」
 チェリックは雅から離れて、雅の頭から足もとまで不躾に見つめた。雅も負けじと、チェリックの容貌を観察する。
 肩まで伸びた薄茶の髪、柔和に整った顔立ちは、一見して女のように見える。細身の体躯もそれに拍車をかけ、どこか頼りないような雰囲気を醸し出しているが、その瞳だけは力強い色を発していた。
 驚くような赤色。血のような、と表現すれば正しいだろうか、と雅は思う。赤の一族の夕明かりのような赤色とは違う。毒々しく、不吉な色だった。
「僕の瞳が珍しい?」
 目が合って、ようやく雅は己がその瞳の色を食い入るように見ていたことに気づいた。
「君を呼んだのはね、この瞳について教えてあげようと思って」
「え……?」
 雅は困惑した。彼が何を考えているのかわからない。
「この瞳は僕の生まれつきの色じゃない。これは、不死の色なんだ」
「不死の色?あの、何を仰っているのか、よく、」
「僕は君を気に入った。正確には、君の瞳を気に入った」
「え?」
「君の瞳にも、この色を灯してほしいんだ」
 チェリックは言い、雅の手を引いた。
 不吉だった。何でもない風にチェリックは言ったが、その態度が恐怖を煽る。何か、予想もつかない不幸が待っている気がした。雅は足を踏ん張り、チェリックの力に抗おうとした。
(うそ、)
 雅は宙に浮いた。浮遊感から急落下する一瞬で、雅は冷静に考える。いくら自分が非力でも、チェリックの細腕から人を宙に浮かすほどの力が出るとは思えない。しかも、チェリックが使ったのは片腕だけだ。
 背中に柔らかい衝撃を受けて、息を詰める。寝台の上に転がった雅は咳込んで、身を起そうと上体を起こす。
「抵抗しちゃだめだ。僕の命令、聞けないの?」
 再び強い力にさらされた雅は、寝台に抑えつけられて呻いた。
「痛くないよ。ただ、これを飲むだけ」
 そう言って口に押し当てられたのは、赤い液体の入った瓶だった。チェリックの目の色と同じ、そう、まるで血のような――
「嫌!」
 暴れる雅の手をチェリックが掴む。
(あ、)
 その拍子に左手にはめていた手袋が外れそうになって、息をのんだ。チェリックはその反応をどう捉えたのか、にやにやと気持ちの悪い笑みを浮かべた。
「観念した?それなら、飲んで」
「それは、なんなんですか。何かわからないものを飲めと言われても、飲めません」
 王印に気づかれてはいけない。雅は誤魔化すように問うた。チェリックは物わかりの悪い子供を相手にするようにやさしく答えた。
「言っただろう?不死の色を与える妙薬。――緑竜の血さ」
 緑竜の血。その響きに目を見開いた雅を見下ろして、チェリックは続ける。
「覇王は緑竜の薄めた血を与えられ、その後百年の時を生きるという。じゃあ、原液を飲んだ者はどうなるのか?そんな馬鹿な実験をした面白い一族がいてね。その一人から譲り受けたんだ」
 信じられない。だが、この世界なら――魔法が常識としてまかり通るこの世界なら、納得できる。
「じゃあ、貴方は不死なのですか」
 問うた雅の声は震えていた。チェリックは笑った。
「そうだよ」
 その時に感じた感情を雅は表すことができない。得体のしれないものへの恐怖。チェリックの浮かべる笑顔の不気味さへの畏怖。そんなものを飲もうと思った目の前の王子への憐憫。そして、一番は。
「淋しい」
 小さく零れた。
「そんなの、いやです」
 まるで、駄々をこねているようだ。
「嫌」
「……!――わかったなら、飲めと言ってるんだ!」
 チェリックが突然声を上げた。不気味だが温和だった彼の豹変は衝撃的だった。
「嫌です、飲まない!」
「飲め!いや、もういい」
 静かにそう言うと、チェリックは上体を起こして瓶の中身を呷った。そして、身を屈める。
「っ、」
 無理やり口づけられた唇から、赤い液体が零れて口端を伝う。必死で口の中に入らないように歯を食いしばるが、強い力で無理やりこじ開けられた。
 ぬる、とそれは口の中に入ってきた。
 嫌悪感が背筋を伝う。ぞわりと這い上がる何かを堪えて、雅は目を瞑った。
「殿下!私です。ヘリオスです。ヘリオス・ゲートリッジ!蟲の一族からの伝令だそうですよ。扉の前で待たされてる兵が可哀想だから開けてくださーい」
 雅の入って来た扉の向こうから、気の抜けた声が聞こえた。それを聞いたチェリックは雅の上で上体を起こし、返事をする。
「煩いよ。なんだって?」
「――!げほ、ごほっ」
 その隙に、雅は口の中に侵入した液体を寝台の上に吐き出した。
「『背中合わせの君』がみつかったそうですよー」
(――え?)
 ぞ、と悪寒が走った。チェリックは雅の様子には気付かず、興奮した様子で寝台から飛び降り、扉を開けに走った。
「和葉ちゃんがみつかったってこと!?」
「ええ。らしいですね。見に行ってみては?」
 扉の向こうにいたのは亜麻色の髪の青年だった。雅が暴れた拍子に浴びた妙薬のせいで頭から血だらけのチェリックの様子を見ても、にこにこと笑顔を絶やさない。
「言われなくてもそうするさ!ジェイムが執心する男の子――いや、女の子だもん。何かの拍子で殺される前に見ないと」
 チェリックは雅を振り向いて、手を振った。
「ええと、雅だっけ。続きは戻ってきてからするよ。面白そうなことが起こったからね!」
 颯爽と部屋を出ていった王子の足音が遠ざかるのを聞きながら、雅は寝台に固まったまま考える。
(和葉の王印がばれた?――それより、今の会話ってどういうこと?)
「ご苦労だった。ヘリオス」
「いいえ、貴方のためなら」
 亜麻色の髪の青年はそう言って、踵を返した。陰に隠れていたらしきシルヴィスは人目を気にしながら部屋に入り、扉を静かに閉めた。
「平気か、雅」
 足早に寝台に近づいたシルヴィスは、寝台の上の雅の姿を見るなり血相を変えた。
「怪我を見せろ!」
「大丈夫。私の血じゃないの」
 未だに動揺する心を落ち着けて、事の詳細を告げると、シルヴィスは寝台に上がって雅の顔を覗き込んだ。
「本当に、飲み込んでいないんだな?」
「うん。大丈夫」
「大丈夫じゃない。何故魔法で抵抗しなかった」
 シルヴィスの紫色の瞳が怒りを孕んでいた。夜空に太陽が昇るようだと思い、雅はそれを見上げながら安堵した。あの色はもう、見たくない。
「魔法を使って派手に抵抗したら、ここに忍び込んだ意味がなくなるでしょう?迷惑、かけたくなかった」
 口に入って来た液体に感じた嫌悪感に、感情のまま押し寄せる魔力。それを必死で堪えたのは、偏にこの理由だけだった。
「………お前は冷静すぎる」
 ふう、とシルヴィスは溜息をついた。
「妙薬を飲まされるだけでは済まなかったかもしれないのに、それを耐える精神力と、仲間を思う忠誠心。称賛に値するが、腹が立つ」
「……っ、ごめん」
「自己嫌悪だ。気にするな」
「?」
「……」
 シルヴィスは黙って、雅の唇をその指先で強く拭った。ひやり、と冷たい。
「とれた?」
 妙薬がまだ唇についているのだろうと、小さな動揺を隠して雅が自分で拭おうとすると、シルヴィスは数度、親指で強く擦ってきた。
「あの、ちょっと痛いんだけど」
「取れない。全然取れない。――不愉快だ」
「え?」
 一瞬、シルヴィスの顔が険悪に歪んだ気がしたが、何事もなかったかのように寝台から降りた姿に、雅は気のせいだったかと気を取り直す。
「ねぇ、さっきの会話、聞いてた?」
「……和葉が『予定通り』ばれたらしい」
「!……やっぱり、和葉は囮?」
 少年好きのジェイムに敢えて少年の姿の和葉を当てたユエの采配に、雅は初めから疑問を抱いていた。
「馬鹿王子が好奇心でこの帝宮を離れた隙に、内部から壊す。このセレズニアは元々チェリックのものではない。反発する者、それを潜在的に望んでいる者はいくらでもいる」
「常駐している兵士を抑えるのね?」
「大きな鼠の群れの中に、猫の子少数。根回しはもう済んでいる」
 雅は頷いた。
「分かった。何も言わない。今は」
「賢明だ」
 和葉を囮に使うユエの作戦には色々と思うところがあるが、今はその時ではない。
 そして、静寂に満ちた帝宮に、始まりの歌声が響き渡った。

―――――

  ラララ ラララ ラ ララ
  竜が躍るよ ララ
  ララと踊るよ ララ
  背中合わせの君抱いて 雷雨の中 楽しく舞うよ
  ラララ ララ ラ ラ
  風が吹いて 君任せ
  夜の星が 導いて
  太陽のもと 連れていく
  ラララ ララ ラ ララ ラララ………

「今日はどんな意味なのかな?」
「わかりません」
 そう、わからない。口ずさむ歌は全て、知らない歌ばかり独りでに紡がれる。
「『背中合わせの君』ねぇ。君にそのことを教えた覚えはないんだけど、さすが『歌姫』というべきか」
 チェリックはそう言いつつ、腰に剣を佩いた。
「どこかにお出かけですか?」
 思わず問うと、楽しそうな笑みで返された。
「ちょっとね。……淋しい?」
「――はい」
 淋しい。本当に、淋しい。
「そうだよね。本当に、そうだ」
 ごめんね、と王子は言って、部屋を出て行ってしまった。一人残されて、再度、歌を呟く。
「ラララ、ラ……」
 一人ぼっち。
 一人ぼっちは、淋しい。
「緋鶯、天藍………」
 でも、もう、会えない。

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