二人の狂人

  4


 時は遡る。紅狼の砦にて和葉としばしの別れを済ませ、雅はシルヴィスと二人、気まずい思いをしながら馬に揺られていた。
(私がだめなんだよね。馬ぐらい、一人で乗れればこんな恥ずかしいことにはならないんだもの)
 前かがみになって背中にあたる体温からできるだけ離れながら、雅は心の中で叫ぶ。
(でも、仕方ないじゃない。乗れないんだもの!体力も運動神経もゼロになっちゃったんだもの!)
 膨大な魔力を得た代償は大きかった。この世界に落ちてきてからというもの、少し走っただけで眠くなったり、夜更かしをしただけで体が鉛のように重くなったりと、不便で仕方ない。魔力はいらないから、和葉のように身体能力強化のほうがどれだけ良かったか。
「離れるな。落ちるぞ」
 シルヴィスは憎らしいほど冷静だ。雅はそれが悔しくてたまらない。
(この人じゃなければ、まだ良かったのに)
 雅はシルヴィスが苦手だ。この偉そうな態度も、綺麗に整った容姿も、何の躊躇もなく触れてくる図々しさも苦手だ。見ているだけで恥ずかしくなってくる。
「離れてない。シルヴィスがちゃんと支えてくれないからでしょ」
 苦し紛れに虚勢を張って言う。シルヴィスの顔は見えない。
「ふぅん?」
 だが、雅にはシルヴィスの表情が手に取るようにわかってしまった。馬鹿にされている。
「なによ」
「いいや?」
 シルヴィスは右手に手綱を持ったまま、左腕で雅の腰を引き寄せた。
(ちょ、っと!)
「不満そうだな。ご所望通り、支えてやっているだけだぞ」
(うわ。むかつく)
 雅は何も言わずに、前方を睨み付けた。背後は振り向けない。くつくつ、と笑い声が聞こえたが無視した。
 草原を揺られて幾日が経っただろうか。漸く目的地が見えてきたころには、雅は気疲れで倒れそうになっていた。
「やはり、お前は旅に向いてないな」
「わかってるなら連れてこないでよ」
「ダメだ。お前じゃなければできない任務だからな」
「?」
 雅はいまだに、セレズニアに到着してからの自分の役割を教えてもらっていない。
「いい加減、何をすればいいのか教えて。じゃないと不安になる」
「待て。もうすぐ、協力者と落ち合えるから、その時にまとめて話す」
 セレズニアは国土を三つの城壁と大門に囲まれた、強固な城塞国家である。一つ目、二つ目の大門を潜るのは造作なかったが、三つ目の大門を前にして、シルヴィスは物陰に身を潜めた。
「ここで落ち合う」
「それよりも、さっきの大門通るときの言訳、かなり腹立たしかったんだけど」
 一つ目の大門は商人と称して簡単に潜れたが、二つ目では止められた。商人らしくないと言い募る兵士に、シルヴィスが言った一言は――
『駆け落ちだ。見ればわかるだろう』
 堂々と嘯く彼に抱えられたまま、雅は絶句していた。シルヴィスもおかしいが、その一言で通してしまう兵士も兵士だ。
「セレズニア人のお人よしは国民性だ。だが、この三つ目の大門を守る兵士は違う。この先の首都を占拠している、シャイオン兵が守っているからな。慎重に行く」
 シャイオン。その語句を聞いて、雅は気持ちを引き締めた。
 馬鹿王子と名高いチェリック王子が、気弱な父王に代わって王政を布いているというシャイオン。その国では人身売買が公然と行われ、貴族と平民、そして奴隷との境がくっきりと分かれているという。それだけならば前時代的であるというだけだが、チェリック王子の馬鹿王子たる所以は他にある。
 砦の蔵書から得た知識を総動員していた雅は、背後から何者かが近づいてくるのに気付かなかった。
「やあ!」
「!?」
 いきなり声をかけられ、雅は飛び上がって驚いた。隣にいたシルヴィスが呆れたように肩をすくめる。
「こいつを脅かすな。凍らされるぞ」
「ごめん、ごめん。で、協力者って、あんたたち?」
 雅は振り返って、顔を引き攣らせた。軽い。余りにも軽すぎる。
「こら、緋鶯。極秘任務なのに、そんなに簡単に教えてくれるはずないだろ?ええと……暗号か何か、決めておいたほうがよかったかな?」
 余りにものんびりしている二人組は、緋鶯、そして天藍と名乗った。どちらも雅と大して年が変わらないように見える。緋鶯は濃茶の短髪、天藍は金髪長髪の、どこにでもいそうな普通の少年である。
「歌姫とか大層な呼び方されてるあいつさ、俺の姉ちゃんなんだ。シャイオンが侵攻してきてあいつが連れていかれるまでは、この第二区画の孤児院で暮らしてた」
 そう言って、悔しげな顔をしたのは緋鶯である。
「あいつを助けてやりたいんだ」
「そして、あわよくばセレズニアを取り戻したい。協力してくれるんだろう?」
 天藍が、試すようにシルヴィスと雅を見た。
「勿論。そのためにここまで来たのだからな」
 雅も黙して頷いた。二人組の表情が明るくなる。
「よっしゃ!」
「それじゃあ、どうやってこの大門を潜るか考えよう。そうだな、奴隷商人とかどうだろう?緋鶯が奴隷役で」
「天藍、さらっと怖いこと言うなよ」
 二人組は幼馴染らしく、息はぴったりだ。だが、雅の目には少しだけ頼りなく映る。ちらりとシルヴィスの顔を見ると、視線に気づいたのか、ふ、と笑われた。
(なんで笑われるの)
 む、と顔を顰めると、シルヴィスは思いがけない一言で二人組の議論を止めた。
「私たちがやるのは旅芸人だ。情報では、二人とも楽を嗜んでいるようだな?」
「は?」
 雅は思わず目を瞬いた。何を言っているのだろう、この男は。
「ま、待って。私、楽器なんてできない。もし、その場で披露しろとか言われたら……」
「お前は踊り子だ」
「それこそ、いきなり言われても出来ないわよ!」
 雅は悲鳴を上げた。だが、シルヴィスは平然と言い放つ。
「大丈夫だ。魅惑の術を使えばいい」
「……あ」
 合点がいった。魅惑の術とは、その名の通り人間を誑し込んで魅了する魔術だ。それを使用しながら舞台に立てば、ただ歩いているだけでも最高の演舞を見ているような夢見心地にさせることができるだろう。ただ、それは雅が使用する場合だ。他の者が使用したとしても、それほどの幻覚を見せることはできない。
 膨大な魔力を持つ雅だからこそできる、荒業だ。
「これが、私に望むことなのね」
「そうだ。お前にしかできない。今、セレズニアでは一週間後に迫ったチェリック王子の生誕祭に参加する芸人を集めているところなんだ。それに参加できれば、チェリック王子の近くに行き、もっと多くの情報を集めることができるだろう。……ということで」
 どさ、と馬の荷を解いて、布を差し出すシルヴィス。雅は受け取りつつ、身を震わせた。
「まさか……嫌な予感しかしないんだけど」
「ユエが持たせてくれた衣装だ。着ろ」
「衣装っていうか、布じゃない!」
 わぁわぁと言い合いをしつつ、渋々着替えた雅は、自身の露出の多さに頬を赤らめながら、門番の前に進み出た。
「う!?」
 門番は雅の姿を見て、固まった。
「は、破廉恥な、じゃなくて、何者だ!」
 好きで破廉恥な格好してないわよ、と言いたい衝動を堪えて、雅は力強く言った。
「この通り!――旅芸人です」
 それ以上雅は言わず、シルヴィスに丸投げした。
「チェリック王子の生誕祭に是非とも華を添えたく、ロイス・テリヌより参りました。シヴィ、オウ、テン、そして雅で御座います」
「太鼓叩けマース」
 緋鶯が空気を読まずに茶々を入れたので、天藍がすぐさまその頭を叩く。その気の抜けた感じが逆に門番の不信感を削いだらしく、あっさりと通門を許可された。
「あっさりし過ぎで怖いけど……お祭りの前なら、いつもよりも通門嘆願の人が多いだろうし、それでかな?」
「………」
「ん?」
 通門して暫くして雅が言ったが、その言葉に誰も答えを返してくれず、雅は少し寂しい気持ちになった。
「どうしたの?」
 もしや、誰かに見咎められているのだろうかと声を潜めると、シルヴィスが無言で上着を脱いだ。
「え?あ、」
「街中でそのままというわけにはいかないだろう。羽織っていろ」
「俺のも。俺のも着て。目に毒だし」
「君、意外と胸が大きいよね」
「てんらーん!」
 わぁぁ、と緋鶯が声を上げて、雅は気付いた。皆、頬が赤い。気付いた途端、雅はますます恥ずかしくなり、シルヴィスの上着をきっちりと体に巻いた。
「見ないでよ!」
「極力見ないようにはした!……砦に帰ったら、ユエに一言三言言っておかなくては」
 ぶつぶつと呟くシルヴィスに、雅は取り合えず、いつものように恨みがましい視線を送っておいた。

 セレズニア第一区画の街中は、第二区画、第三区画に比べ、小奇麗で洗練された雰囲気があった。
「第二区画は市民区画。第三区画は流通区画。そして第一区画はセレズニア帝王の居住区であり、双子宮で働く官吏たちの居住区でもあるんだ」
「ふたごみや……。セレズニアには、二人の王様がいるんだよね?」
 天藍は引いてきた馬の荷から横笛を取り出して頷いた。
「セレズニア帝、そしてセレズニア王はシャイオン侵攻の折に捕らえられて、今はシャイオンの灰色都市に軟禁されてるんだ」
 シャイオン侵攻。半年ほど前――ちょうど、前覇王が死んだ時期――に、シャイオンがセレズニア南部から侵攻し、一晩のうちに第一区画、第二区画、そして七日後には第三区画まで攻め入り、占拠した事件。その折り、第二区画で人目を忍ぶように暮らしていた『歌姫』杏珠を拘束し、双子宮に幽閉した。その時からチェリック王子は双子宮の黄金の間で暮らすようになった。
「なんで、チェリックは……」
 雅はそう呟いたきり、黙り込んだ。雅の言いたいことが分かったらしい天藍は悲しげに笑った。
「気を使わないでいいよ。どうしてチェリックは、杏珠を殺さなかったのか。まるで所有するように、同じ宮の中で暮らし始めたのか。でしょ?」
「あいつは楽しんでるんだ」
 緋鶯が、驚くような低い声を出した。
「俺は杏珠が連れ去られる時に一緒にいた。あいつは俺のことも殺さずに、言った。『返してほしかったら、取り返してみなよ』ってな」
 緋鶯の瞳が燃えていた。怒りの炎だろうか。先ほどまでのお気楽さが嘘のようだ。天藍もまた、瞳を閉じて何かを耐えているようだった。
(この人たち……)
 雅は言いようのない思いに駆られ、目を反らした。反らさなければ呑まれてしまうと思った。
 以前の世界にいたころから、人の感情や激情の波の間をふらふらと乗り越えるのは得意だった。何も感じなければいい。そうすれば波はいつか凪いでいく。
 ――『雅、貴女は本当に気が利かない子ね』
 ――『私の娘じゃないみたいだ』
 いつか、消える。思い出すたびに疼くこの小さな痛みだって、消えるはず。
「よし、準備ができた」
 雅の深慮を打ち消すように、シルヴィスが声を上げた。雅は巻き付けていたシルヴィスの上着を取り払い、気を引き締めた。
 旅芸人らしい格好に着替えたシルヴィスは、雅に近づいて囁いた。
「おさらいだ。もうすぐチェリックがこの大通りを通り、双子宮の王宮から帝宮に渡る。その間、チェリックは生誕祭のメイン、王宮での祝賀パーティーで芸を披露する芸人を選び、声をかける」
「祝賀パーティーで芸を披露する芸人の中には、『歌姫』杏珠も含まれてる。接触するには好機。……大丈夫、わかってるよ」
 どどん、と右手で音が鳴った。チェリックが来たようだ。一行や他の芸人たちはその場に跪き、出番を待った。
 地面を見つめる雅にはチェリックが近づいてくる姿は見えない。だが、他の芸人たちが次々と芸を披露し、その結果に一喜一憂している気配が、どんどん近づいてくる。次が己たちの番だと思った時、雅はどきどきと心臓が煩く高鳴るのを抑えられなかった。
(こういうのは、苦手)
「落ち着いて、いつも通りのお前でやれ」
 隣のシルヴィスが、雅にしか聞こえないような声で呟いた。
「大丈夫。お前は天才だ。お前にしかできない。お前ならやれる」
(シルヴィスは不思議な人だ)
 雅は心臓を抑えながら、思った。
(他の人がそう言うと無責任な励ましにしか聞こえないのに、彼が言うと本当のように聞こえる。彼はそう言えるだけの根拠を持ってそう言っているのだと信じられる)
 それはきっと、彼の傲慢な人柄故というだけではない。
「次。旅の一座。雅、シヴィ、オウ、テン。以上四名。前へ進み、殿下に芸を披露せよ」

―――――

 チェリックは飽いていた。帝宮で待つ歌姫のもとへ、すぐにでも飛んで帰りたかった。己の富を誇示するためだけの生誕祭など、チェリックはどうでもよかった。
 そもそも、歌姫という唯一無二の最高の芸人が歌を披露するというのに、何故他の芸人まで王宮に招かなければならないのだ。歌姫の歌声以外で己を魅了できるものなどこの世には存在しないと、チェリックは信じていた。
 くだらない芸。くだらない女たち。飽いた。詰まらない。
 双子宮の間を渡る間に、来いと言える者を見つけられる気がしなかった。実際、チェリックは詰まらなそうに芸を見やっては、歩を進めるのみだ。声はかけない。
(次も詰まらなかったら、首をはねてしまおうか)
「次。旅の一座。雅、シヴィ、オウ、テン。以上四名。前へ進み、殿下に芸を披露せよ」
 こちらへ寄って来たのは、見たことのない顔立ちをした異国の女だった。長い黒髪に幼い顔立ち。真白とは言えない肌と体躯は、顔貌の幼さとは対照的で。
 魅惑的な少女だと思った。
 だが、チェリックをもっとも惹きつけたのは、その可愛らしい顔立ちでも、蠱惑的な肉体でもなく、その、瞳だった。
(僕に挑んでくるなんて、身の程知らずな子だね)
 嘘のつけない瞳。敵に挑みかからんとする雌豹の瞳。恐れているくせに意地を張って、睨み付けてくるような瞳。
 首をはねる気には、ならなかった。
「来てもいいよ」
 今にも演奏を始めようとしていた、少女の後ろの男たちが楽器を持ったまま目を見張る。
 少女もまた、その瞳でチェリックを凝視していた。その視線が心地よかった。
(面白そうだ)
 感じたのは、いつものように愉悦の感情。そして、期待。
(この子は僕を愉しませてくれる子だ)
 少女の唇が戦慄いた。何を言うべきか、迷っているのだろう。チェリックは助け舟を出してやった。
「ねぇ。この僕の前で、僕のための舞を披露させてやるって言ってるんだ。感謝の言葉はないの?」
「あ、」
 少女はやっと、己のとるべき行動が分かったようだった。
「ありがとう、ございます」
「うん。そうだね」
 チェリックは笑った。この少女も、僕のものだ。

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