二人の狂人

 蟲とは魔物の一種である。その正体は、異世界――地球から、何らかの形で天球に落ちてきた虫がその過程で魔力を帯び、異形に転じたものである。人が落ちてくる過程で魔族となるように、何の変哲もない虫も魔物となるのである。
 その蟲を繁殖させ、意のままに操る一族が蟲の一族と呼ばれる者たちである。その族長であるジェイムは特に蟲に好かれる魔力を持っており、生まれたときから常に傍には大小大勢の蟲たちが彼の寵愛を求めて蠢いていた。
 ジェイムの方も彼らを憎からず思っていた。何しろ蟲はジェイムをけして裏切らない。
「どうした。何を急く」
 ジェイムは巨大な蟲――赤の一族はこの蟲をお化けイモムシと呼ぶ――の背中に胡坐をかいて座ったまま、腕を組んで首を傾げた。
 同胞の蟲の一族はいない。この蟲がなにやら興奮していたようだったので相手をしていたら、いきなり走り出して逸れてしまった。彼らがいなくとも元の野営地に帰る自信はあるが、この辺りはあの野蛮な女が駐屯している区画に近すぎる。ジェイムはそう思ってから、舌打ちをした。敵に怖れをなしたわけではない。赤の一族の存在自体を頭の中に思い描いてしまった事実に苛立ったのだ。
 赤の一族は彼にとって憎悪の対象である。隣り合わせの区画に住まうために幾度となく交戦してきた二つの一族の仲は、もはや修復不可能なくらいに拗れてしまっている。もっとも、修復したいなどと考えている者は両一族どちらにもいない――と、ジェイムは二か月前まで本気で思っていた。
 今回の小競り合いも、始まってからもう二カ月経っている。それなのに決着がつかず、無駄な犠牲と浪費がかさみ、加えてあの女の突拍子もない傲慢さぶりも際立って、いつもよりも厄介なことになっていた。
(あの女……そろそろ蟲をけしかけて殺してやろうか)
 ジェイムの怒りに反応して、小さな蟲たちがざわざわと砂の中から這い出てきた。ジェイムはそれらの蟲たちに魔力を与える傍ら、遠くに見え始めた二つの人影に目を細めた。
 ラクダに乗っている。大柄な方は憎むべき赤の一族だ。あの無駄に主張するうざったい赤い髪はやつらの特徴だ。身体能力だけが取り柄の筋肉馬鹿のくせに、その視界にはまだジェイムは映っていないらしい。もう一方は――
 ジェイムが大きく目を見開くのと同時に、突風が視界を遮った。

―――――

 ひと月の研修期間が終わって、計画は実行に移された。
 ヒビキと共に赤の一族の砦を後にした和葉は、エナス砂漠を南に向かっていた。
「どんなもんだい、このラクダ捌き!」
 一人でラクダの背に乗りながら和葉がはしゃいで言うと、ヒビキは大きな声で笑った。
「格好いいぞ。さすが美少年だ」
 和葉が今着ているのは、ヒビキの冒険者風の服をそのまま小さく、細身にしたような服だった。肩当てなどでちょうどよく女性的な丸みを抑えるそれを和葉の長身と短髪に合わせると、本当に男の子にしか見えないと雅が太鼓判を押した出来である。和葉は複雑な気持ちになった。
「ユエの考えが今一よくわかんないんだけど……」
「まー、悪いことにはならんだろうが、マニュアルはちゃんと読んどけよ。といっても、もうすぐ目的地に着くはずだが――」
 ヒビキの台詞が終わる前に、前触れなく突風が二人を襲った。風に煽られてラクダから落ちそうになり、和葉はしっかりと手綱を握った。舞い上がった砂が顔面に叩きつけられ、閉じていなかった目と口を襲う。
「―――!」
 反射的に目と口を閉じたまま身を固めていると、叩きつける砂の感触が弱まり、解けるように風が止んだ。和葉は目をこすって中に入った砂を取り除き、砂にまみれた舌を出した。
「うえー。もう、最悪」
「和葉、上だ!」
 ヒビキの叱咤する声を聞いて、和葉は慌てて目を開けて、腰に佩いていた剣を抜いた。
「な、なになに?」
 照りつけていた日差しが止んだ。ヒビキが厳しい顔をして見上げているものを見て、和葉は絶叫した。
「ひぃぃぃ!でっかい蛾!?気持ち悪いー!」
「あまり大口開けて喋ると鱗粉を吸いすぎて動けなくなるぞ」
 ばさ、ばさ、と羽音を立てて和葉とヒビキの真上を旋回しているのは、先日出会ったゴム蟲と同じくらい大きい蛾だった。和葉はユエからの座学で習った蟲の知識を総動員して、それ以上無駄口をきくのはやめておいた。蛾蟲の羽から生まれる鱗紛には微量の神経毒が含まれており、肺に大量に摂取すると死に至るものもいる。
 ヒビキはすでにラクダから降り、顔に口布を当てていた。和葉もそれにならって懐から口布を出すが、蛾蟲が真上で羽を動かすために、風にあおられて口布が彼方に飛んで行ってしまった。
「あー!」
「何やってんだ!」
 ヒビキが焦った声を出した。と同時に、和葉は指先に痺れを感じた。このままではまずいと思い、ラクダに命じて離脱しようとしたが遅かった。ラクダの足ががたがたと震え、和葉を乗せたまま横倒しに倒れた。
(うそー!)
 重いラクダの体が和葉の上に倒れかかって来て、和葉は声にならない悲鳴を上げた。なんとか抜け出して、鱗紛の届かない場所に逃げなくてはならないが、毒が体に回り始めていたためにうまく力が出ない。ラクダを力の限り押してみるが、びくともしなかった。
「あんまり動くな。そこで待ってろ!」
 ヒビキはラクダに圧し掛かられたまま身動きが取れなくなった和葉を気にしながら、空高く舞う蛾蟲を見上げて右手を向けた。
 ごう、と熱風が頬を撫でていき、和葉は意識が朦朧としてきた。痺れる。重い。暑い。
 ヒビキの右手から噴き出した火柱は、蛾蟲の片羽を掠めて空を昇った。蛾蟲は怯み、傷ついた羽から大量の鱗紛をまき散らしながら、ゆっくりと逃げて行った。
「あちちちっ。――大丈夫か。意識はあるか?」
 ヒビキは和葉の上のラクダをどかせ、己がしていた口布を和葉の顔に押し付けて、軽く頬を叩いた。和葉は砂に背中を埋めながら、僅かに首を縦に振った。
「まさかこんなところにはぐれ蛾蟲がいるとは思わなかったから、解毒薬を持ってないんだ。駐屯地まで我慢してくれ」
(えーっ?)
 では駐屯地までずっとこのままなのか。絶望した和葉を、ヒビキが背負おうとした時だった。
「お困りのようだな」
 和葉は何故だか、ぞ、と背筋を何かが這い回ってくる感触を感じた。その声を聞いたヒビキは和葉を背に庇い、大剣を抜いて構えた。
「何故お前がここに!」
 和葉はヒビキのこんなに焦った声は初めて聞くなと思い、ヒビキと対峙している人物を、痺れる首を何とか上げて見た。
 ターバン。和葉の第一印象はそれだった。頭に布を巻き、大きな琥珀の耳飾りをしたその男は、和葉に元の世界の物語アラビアンナイトを思い出させた。肌は日に焼けて浅黒く、髪の色はわからないが、露出した眉の色は和葉と同じ純色の黒だった。
「ここは砂の国黒蟲区だ。主の俺がどこにいたとて、文句を言われる筋合いはないな」
 気だるそうに流された目は、和葉のものよりも明るい茶色だ。ややたれ気味の下瞼が色っぽく、その目を細めて笑いかけられた和葉は、少しだけどきりとした。
 ヒビキは男の視線に危険なものを感じたらしく、和葉にぼそりと警告した。
「マニュアル、ちゃんと読んだんだろうなー?」
 和葉は一瞬何のことかわからなかったが、気づいて瞠目した。
(え、この人がジェイム?傍若無人で冷酷で美少年好きの変態ジェイム?)
 毒のせいで口が回らないことは幸いだった。思ったこと全てを口に出していたら、命を失うでは済まなかったかもしれない。
 ジェイムの予想と全く違う出で立ちに、和葉は困惑した。もっと変態的な――もっというならば、好色気味なおじさんをイメージしていた。
「ようやく」
 ジェイムが笑みを浮かべて口を開いた。その目はヒビキを無視して、真直ぐ和葉の姿をとらえていた。
「ようやく会えたな。俺のものだ」
(へ?)
 ヒビキが剣を振った。ぐしゃりと音がして、何かが砂の上に落ちる。――蟲だ。和葉はぞっとした。ジェイムの足元から、次々に湧き出てくる小さな黒いものを見ないようにして、ヒビキを問うようにして見上げた。
「ほら、食いついたろ?」
(私は釣りの餌か!)
 ざわ、ざわわ。蟲の大群が、和葉とヒビキを囲むようにして迫ってくる。ヒビキが火を放ち、焼き払っても、きりがない。和葉は暑さで再び気が遠くなってきた。
「そっちの赤いやつは喰え」
 ジェイムが言った言葉に、和葉は驚いて意識を取り戻した。そんなことさせるものかと、力いっぱい身を起こす。びりびりと痺れる全身の苦痛に、顔が歪んだ。
「和葉、悪化するから動くんじゃない。大丈夫だ」
 大丈夫なものか。和葉が泣きそうになりながら反論しようとするが、やはり口がうまく回らない。そのうち、蟲の大群は和葉の狭まった視界一杯になった。恐ろしくて体が震える。自分は蟲に狙われないはずだが、ヒビキが目の前で食われていくのを見るのはもっと恐ろしいことに思えた。
(やだやだやだ!変態!馬鹿!)
 心の中でジェイムを罵倒していると、蟲たちの動きがぴたりと止まった。それどころか、次の瞬間、怯えたように無秩序に暴れだす。ジェイムが舌打ちする音が聞こえた。
「あの女……殺すべきだな」
 不穏な一言が放たれた。ジェイムの足もとの砂が盛り上がり、醜悪なものの姿が現れる。
 巨大なイモムシだ。和葉がそれを認識した時、ジェイムはふ、と和葉を見て笑った。
「必ずお前を手に入れる。ようやく見つけた――……」
(なんで)
 砂が舞い、ジェイムの姿がかき消えたように見えた。和葉は限界を迎えて、体を砂に横たえて空を仰ぐ。
(なんで、私の名前、知ってるの)
『 か ず は 』
 口元だけで呼ばれた名前は、確かに己のものだった。


 気を失ったまま赤の一族の駐屯地に運ばれた和葉は、その日の夕方に目が覚めた。
「じゃあ、私たちを助けてくれたのは、あなたなの?」
「そうよ」
 簡易ベッドの横に立った長身の女性はそう答え、名乗った。
「私は赤の一族の長、マオラよ。解毒薬は投与したけれど、もう異常はない?」
 蛾蟲を追い払うために放ったとみられた火柱は、実際には近くの駐屯地へ自分たちの危機を知らせるためだったらしい。想像もしていなかった火の使い方に、和葉は感心しきりだった。
「うん、元気。私は和葉だよ。ありがとう」
 すでに説明はあっただろうが、和葉は改めて自己紹介をした。
「お、起きたんだな、和葉」
 救急用の簡易テントの入口から入って来たヒビキに何か反応しようと和葉が口を開いたが、その前にマオラが動いた。
「こんの脳みそ筋肉男ぉぉ!」
 紅狼の砦で日常的に聞いていた――主にユエが発する――罵倒が響き、ヒビキの頬に目にも留まらぬ右ストレートが入った。和葉がぽかんと口を開けている間に、第二撃の平手打ちが華麗に決まる。すごく痛そうな音が響き、他のベッドで寝ていた怪我人が目を覚まして、なんだなんだと飛び起きる。
「蟲対策の解毒剤くらい常に持ってんのが赤の一族としての常識でしょうが!それでも赤の一族の男か、玉ついてんのか、あぁ!?」
 え、この人すごく怖い。和葉は素直にそう思った。
「だってよぉ、マオラ姉さん。あんくらいの毒で倒れるなんて思わねぇし」
 命知らずにも口答えするヒビキに第三撃が見舞われた。
「あんたはメシ抜き!サメギの爪の垢でも煎じて飲んでな」
「はぁ〜!?」
 発言の撤回を求めて言い募るヒビキを無視して、マオラは般若の顔を菩薩に変えて和葉に向けた。
「それで、あんたが円卓の王なのよね?」
「は、はい」
 反射的に丁寧語を使った和葉に、マオラは笑った。
「畏まらなくてもいいのよ。――そう、じゃあ、あんたが私たち魔族の王様ってことになるのねぇ……」
 マオラはそう言って、和葉の全身をくまなく見て、大きな溜息をついた。
「駄目ね」
「え?」
「貧弱すぎよ。男ならもっと鍛えなさい。赤の一族にはそんな小枝みたいな腕の男なんかいないわよ」
 いや、男じゃないですと否定するより先に、マオラがすぐに二の句を継いだ。
「蛾蟲の毒にやられるような軟弱な王様なんかいらないわ。それでも、ジェイムが魔族の代表――王になるよりはいいから味方するけれど、あんたは総じて落第点よ。もしも覇王とやらになったとしても、私たちの王とは名乗らないで頂戴ね。私たちにあんたみたいな王は必要ない」
 和葉が黙っている間に、マオラは綺麗に微笑んで手を振った。
「じゃ、もう起きれると思うから――夕食の席で会いましょう」
 それはこの世界で初めて経験した、拒絶だった。

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