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シャイオンとセレズニアの国境、カルタ平野には長い長い長城が聳え、シャイオンの黒の領域を守っている。
中央の白の王城とは違い、長城は管理者の性質ゆえか、不衛生で醜い。彼方此方城壁が崩れている上、城下には貧しい黒の領域から逃れてきた浮浪者が長城から外へ出ようと見回している。
「酷いところだな……シャイオンってところは」
間近のイクスが小さくそうぼやいた。雅は頷いて答えた。
じゃり、と砂と埃まみれの床を踏み、二人で慎重に歩き出す。思った通り、見張りは少ない。誰もが長城に忍び込み、チェリックを救出するものなどいないと思っているのだ。
雅は忍びの魔法に長けていること、イクスは雅の体力的問題を補う戦闘力を持っていることを理由に密命を受けた。
シルヴィスと緋鶯が休戦協定会議に参加している間、雅とイクスは囚われの身のチェリックを確保する。そして一人で脱走したように装い、連合軍で匿う――。
(うまくいかない気がする)
処刑執行は休戦協定締結の後、正午だ。黒の民を中心に、民衆を集めて公開で行われるらしい。協定会議ぎりぎりの時間で到着してしまったので、作戦決行までにイクスとの十分な打ち合わせができなかった。
(緋鶯が会議でチェリックの解放を請えばとも思ったけど……後できっと、ツケがある)
チェリックは国内外で憎まれている戦犯だ。血狂王子と名高い彼を救おうと敵国の王が進言すれば、いずれ各方面で大きな確執が生まれるだろう。
「事前調査では、この奥に牢があるはずだ」
少ない準備時間だったとはいえ、目的地までの道順はしっかり頭の中に入れている。イクスは注意深く周りを見回しながら言った。目の前を兵士が一人、通り過ぎていく。
「鍵はその前の小部屋だよね」
「寄ってく必要はねぇよ」
イクスが得意げに指にかけた鍵を振る。雅はきょとんとしてしまった。
「え、それ、どうしたの?」
「どんくせぇな。さっきの奴からちょろまかしたんだよ」
雅は通り過ぎて行った兵士を振り返ってから、イクスを見上げた。
「手癖がいいのね」
いくら忍びの魔法を使っていたとしても、鍵をかすめ取る過程で兵士に手が触れてしまっては台無しだ。スリの能力が高い以上に、とんでもない度胸の持ち主である。
「あんたと違って育ちが悪いからな」
言っている間に、呆気なく牢の前にたどり着いた。
(ここからが、一番問題なんだけど……)
雅はそっと、鉄格子を覗き込んだ。天井には申し分程度の採光ができる窓があるだけで、目を凝らさなければ牢の中の人物の姿が見えないほどに暗い。
身震いするほどの冷気が、牢に近づくにつれて感じられた。その時、中をよく見ようとする雅の首根っこをイクスが掴み、引き戻した。
「っ!?」
ぬ、と白い手が闇の中から現れ、雅の顔すれすれの虚空を撫でた。ぎょっとする雅の目の前で、くす、と何かが笑った気配がした。
「かくれんぼうかい?」
目を頼れない環境では、忍びの魔法も意味をなさないのかもしれない。漸く見えたチェリックの細面は真直ぐに雅を見ていた。その場に自分以外の人物がいるのを確信している口調で笑う。
「母上の刺客かな……。目がいいんだね。折角顔を握りつぶしてやろうと思ったのに、逃げられた」
チェリックの怪力は以前、身を持って体験した。雅はぞっとして言葉を失った。イクスに引き戻されなければ、確実に顔面を壊されていた。
間近で見るチェリックは以前よりもやつれていたが、その赤い瞳は相変わらず不気味に光っていた。身内に投獄され、死刑宣告されたというのに、意外と元気そうに見えた。しかし、雅はチェリックの内面を何も知らない。元気そうに見えるだけで、心は消耗しているのかもしれない。歌姫と呼ばれた少女の言葉を思い出し、雅は眉を寄せる。
「刺客じゃないわ」
イクスに乱された首元を整えながら、言葉をかける。
「貴方を助けに来たの」
チェリックは一瞬、彼に見合わぬ幼い表情をした。雅は彼の年齢を正確には知らないが、もしかしたら意外と年若く、これが年相応の表情なのかもしれないと思った。
「その声……君は、雅かい?」
次に驚くのは雅のほうだった。まさか覚えられているとは思わなかった。驚いた雅の気配が分かるのか、チェリックは納得した様子だった。
「道理で面白そうな子だと思った。でも……刺客じゃないとしたら、君は誰だ?」
『道理で』と言ったチェリックの言葉の真意は雅には分からなかった。
「私は……」
口ごもる。迷った雅の代わりに、イクスが口を開く。
「騎士団だ」
一言だけだったが、チェリックは己の状況を把握したようだ。鉄格子にかけていた手を引っ込め、暗闇の奥へと消えていこうとする。
「僕はここから出ない。帰りなよ。……というか、男連れとはね」
雅はイクスと視線を交わした。溜息をついたイクスは雅の耳元で「俺が戻るまで鍵は開けるな」と忠告してから元の道を戻っていく。去り際に「ったく、めんどくせぇ」とぼやく声が聞こえた。
チェリックが再びこちらに近づく気配がしたので、雅は一歩後ろに下がった。
「貴方、状況はどの程度知ってるの?」
「全部知ってるよ。僕は母上に殺される」
「それだけじゃない。見せしめにされるわ。貴方は公衆の面前で、平和の為の犠牲になるの」
のらりくらりとした問答は不要とばかりに、雅は直球に言ってやる。
「でも、貴方は不死の存在。首を切られようが死なない。民衆の無用な混乱を避けるために、貴方を処刑させるわけにはいかないの」
チェリックは笑顔のままだ。
「……。ストレートだね。僕が可哀想だとか、死なせたくない!とか、言ってくれないの?」
「それは私の役目じゃないから」
「言ってくれないと、ここから出ない」
まるで杏珠の再来だ。雅は躊躇した後、諦めた。
「――貴方を死なせたくない」
「……。へぇ、じゃあ僕が欲しい?」
雅の目を見て、チェリックは声を上げて笑った。
「ごめん、そんな怖い顔しないで。わかったよ。保護されてあげる」
雅が鍵を取り出すより先に、チェリックの手が鉄格子を掴んだ。鉄が有り得ない方向に曲がっていくのを見て、雅は息をのむ。あっという間に己が通るだけの空間を開けたチェリックは悠々と脱獄し、小首を傾げた。
「さあ、行こうか?」
―――――
雅がチェリックと対峙している頃、セレズニア・騎士団連合軍は長城の内部に進行していた。盟主である緋鶯が馬から降りると同時に、シルヴィスも大地を踏みしめる。ぐちゃりと嫌な感覚があり、目を向けたシルヴィスは後悔した。
大地に這いつくばった骸骨がこちらを見ていた。同時に、ずき、と目の奥が疼く。
(動揺するな。ただの骨だ。肉が削げ、命が失われた抜け殻だ)
す、と疼きが消える。シルヴィスはその紫紺の瞳を手の平で覆って、息をついた。見るものに注意を払うのには幼少のころより慣れていたはずだが、戦続きの最近はあまり気を配れず、『彼』には悪いことをしていた。
(それにしても、もう少し慣れてほしいものだ)
前方から、こちらときっちり同じだけの兵を伴って、女が歩いて来た。見知ったその姿に驚きはない。想定の範囲内だった。
「ようこそお越しいただきました。リアンチェスト朝にて食客とされています、グリンクレッタ・ゲートリッジと申します」
恭しい礼の後、グリンクレッタはシルヴィスへ視線を送って来た。シルヴィスは目を眇めて返す。
(やりすぎだ)
シルヴィスの叱責が分かったのか、グリンクレッタは唇に弧を描いた。ちっとも悪びれていない様子だった。だが、シルヴィスはそれ以上視線を送るのをやめた。そもそも、正確には彼女は己の部下ではないのだ。彼女には彼女の自由意志があり、シルヴィスはそれを尊重しなければならない。それが騎士団へ彼女を招いた時に契った事だった。
(女は何を考えているのか分かりづらい)
シルヴィスはグリンクレッタに案内された先で出会った女にもそんな印象を抱いた。
「ようやく会えましたね」
開口一番そう言った女は、彼女と向き合うように用意されたもう一つの王座へ緋鶯が進み出るより先に、立ち上がった。気が急いたように、歩き出す。彼女の足は震えていた。
「ああ、ようやく、」
女が小走りになり、緋鶯に両手を伸ばす。シルヴィスは驚いて動けない緋鶯と女の間に入り、彼女の動きを止めた。両の手を上げたまま、女はシルヴィスを睨み上げた。
「不審な動きはやめて頂こう。ここは休戦協定を交わす場だ」
「……仕方有りませんわね。抱擁は全てが成ったその時にしましょう」
抱擁など受ける理由が思いつかないのだろう緋鶯は、腑に落ちないという顔をしながら王座へ座った。女も己の王座につき、扇を広げた。
「手早く済ませましょう。貴方に出会えたのですから、あれは早く始末してしまわなければ」
「あ、あれとは?」
緋鶯が恐る恐るといった様子で問うと、女――シャイオン王国王妃サラナは、台詞とそぐわない慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「あの子ですわ。狂った王子――と呼ばれた子ども。貴方の代わりの子ども」
「お、俺の代わり?」
何が何だかわからない、と緋鶯はぼやく。サラナの印が刻まれた書類に目を通し、同じく印を押したシルヴィスが緋鶯に回すと、緋鶯は助けを求める様な目でこちらを見てきた。
「なあ、どういうことかわかるか?」
小声で尋ねられても、シルヴィスにも意味が分からない。狂った王子の母親は狂った王妃なのだろうと聞き流していたのだが、初めて顔を合わせた妙齢以上の女性から熱い視線を浴びる当の本人には聞き流すことのできない話題なのだろう。もし己が彼の立場に立つなら正直に言って、気持ちが悪い。
「何から話しましょうか」
緋鶯が書類に目を通し、押印したのを見計らって、サラナは話し出した。真直ぐに緋鶯を見つめ、まるでこの場には緋鶯しかいないかのような態度だ。
「幼い頃から、わたくしは叶わぬ夢を見ていました。この地を、シャイオンを、王として治めるという、ささやかですがけして叶わぬ夢です。わたくしはシャイオンの唯一の王女として生まれましたが、わたくしの母は身分が低く、わたくし自身は王になれなかった。変わりに王になったのは、先代の円卓の王の子孫というだけの下賤な男……わたくしの夫です」
サラナは己の右手を眼前に晒し、何もない白い手の甲を見つめた。
「もしも、この手に王印があったなら、わたくしは王になれたのでしょう。先祖が王印を持っていたというだけの男だってなれるのです。王印さえあれば……」
サラナは過去に思いをはせている様子だった。シルヴィスも緋鶯も、その場の全員が彼女の話を聞きながら、疑問符を浮かべていた。彼女はいったい、何を言いたいのだろう。
「そんなわたくしに、転機が訪れました。わたくしが泣く泣く産んだ王子が、右手に王印を持っていたのです。わたくしはその時、新たな夢を抱きました。――この王子を、わたくしのただ一人の息子を、シャイオンの王にするのだ、と」
シルヴィスは嘔気を堪えた。まさか、と思った。頭の奥の疼痛が激しくなる。
(駄目だ。聞くな!眠っていろ……今は、夢の中で……)
「ですが……あの男は、わたくしの夢を許さなかった。あの男は、別の印を持つものに王座を渡したくなかった。だからわたくしの息子を取り上げ、捨ててしまった。わたくしは捜し歩いた。王城を、城下を、貧民街を、何年も。そして、やっと、やっと見つけた。わたくしの王子――チェリックを。わたくしは大枚をはたいてあの子を買い、薔薇の園で大切に育てた。でも……でも、わたくしは、わからなかった。わからなくなっていた」
シルヴィスは緋鶯を窺った。緋鶯の顔は青ざめ、今にも腰を浮かし、この場から逃げ出したいという顔をしていた。シルヴィスも同じ気持ちだった。
「あの子の印は、果たしてあのような形だったろうか……?」
緋鶯が勢いよく立ち上がり、彼女に背を向けて立ち去ろうとした。シルヴィスもそれに倣おうとしたが、いつの間にか王妃の私兵がこちらの兵たちを剣で制し、取り囲んでいた。シルヴィスは舌打ちを我慢せず、緋鶯の傍に寄った。
「逃げないで。わたくしは貴方に害を与えるつもりはありません。だって……」
頭の奥が痛んだ。聞くなと言っているのに、あいつは――!
「貴方はわたくしの夢……わたくしの息子なのですもの」
王妃は緋鶯の右手の甲を、舐めるように見つめていた。
―――――
まだ早い時間帯だというのに、夢の中に引きずり込まれたらしい。和葉は光の中を歩きながら、王子様を探した。
「おうじさまー?おーい」
夢の中に王子様が出てこないのは珍しい。一向に現れない王子様に、和葉は不安になって来た。
「王子様ったら……引きずり込んだくせに、ずるいよ、寂しいよ……」
王子様に引きずり込まれたと決まったわけではないのだが、和葉は勝手に決めつけて項垂れた。すると、目の前に唐突に、王子様が現れた。
「あ、いるじゃん!王子様ったら、遅、」
和葉は言葉を切った。王子様は和葉に気づいていないように虚空を見つめて、静かに涙を流していた。
「えっ、ど、どうしたの、王子様!ねえ!」
こちらを見ない王子様の肩を揺さぶると、ゆっくりと瞬きをしてこちらを認めた。
「――和葉さん……どうしてここに?」
「ど、どうしてって、王子様が呼んだんでしょう?」
「………僕が?」
王子様は夢見心地といった様子で――別の表現だと、寝ぼけ眼といった様子で――和葉を見つめた。
「そう、僕が――貴女を呼んだんですね」
王子様はぽろぽろと宝石のような瞳から、これまた宝石のような涙を流して、和葉にすがって来た。
「王子様……?」
「和葉さん、――ありがとうございます」
「へ?私、別に何もしてないよ」
「いいえ。貴女が来てくれるだけで、僕はこんなにも幸せな気持ちになれる。それだけで僕は、……ずっと『 』でも寂しくない」
王子様はもう一度、ありがとうございますと呟いた。