落ちてきた二人

  
 4

 和葉がこの世界――天球に落ちてきてから、一月が経った。砦の主は未だ帰らず、シルヴィスはいつも砦中を忙しく歩きまわっていた。
 和葉と雅は始めの一週間をこの世界の基礎的なこと――地理や文字、生活に必要な知識――を集中的に学び、徐々に戦闘方法についての講習を受け、この三週間はずっと実践方式の鍛錬を行っていた。
 和葉と雅の違いはすぐに現れた。和葉は持ち前の運動能力に加えて、赤の一族が得意とする身体強化の魔法に優れているらしく、剣を使っての戦闘を主にヒビキから教わった。
 対して、雅は複雑な魔法理論を解する頭脳を持っていたため、ユエから様々な魔法を使っての戦闘方法を学んでいた。和葉は一度、雅の真似をして魔法書を読んでみたが、文字はなんとなくわかるのに文法は難解で、しかも理論が全く頭の中に入ってこなかったため、早々に諦めた。雅は難解な理論を自分なりに理解していくのが楽しいようで、鍛錬の後もユエに借りた魔法書を嬉々として読み進めていた。
「マリッジ・ロッドって素敵……」
 ある日の鍛錬が終った後、自室に戻る途中で、雅は分厚い魔法書を抱いて夢見る乙女のような声色でそう呟いた。マリッジ・ロッドとは魔法を分類した古の賢者である。姿なき賢者とかなんとか教えられたが、和葉には理解できなかった。
「剣法を確立した勇者アッシェール・ノヴァのほうがすごいよ」
「あら、最終的にイナス大陸に法による秩序をつくった革命家エドワルド・ゲートリッジが一番素晴らしくてよ」
 ねっとりと甘い声だった。和葉と雅が振り向くと、絹のドレスに身を包んだ美しい女がにっこりと笑って立っていた。額を出した明るい茶色の真っ直ぐな長髪に、宝石をはめ込んだような青色の瞳――まるでお人形のようだ。岩の回廊よりも、お城の大広間で優雅なダンスを踊っているのが相応しいと和葉は思った。まるで合成写真のようである。
 女は和葉と雅の全身を上から下まで見やった後、含むように笑った。
「執務室まで案内しなさい」
 年齢は己と変わらないはずなのに、随分と高飛車な言い方である。和葉はむっとして、雅の手を引いた。
「自分で探してよ。私たち、忙しいから」
 女の顔がす、と変わった。顔面に張り付けていた胡散臭い微笑みを消すと、自分より僅かに高い和葉の顔を見上げてせせら笑う。
「坊や。貴方、わたくしを誰だと思っているの?グリンクレッタ・ゲートリッジですわよ」
 和葉は完全にカチンときた。
「知らない。どうでもいい」
「あらまぁ。貴方たちの勉強係の女は、さぞや素晴らしい教育をなさっているのね」
 てっきり和葉たちを使用人か何かだと思っているのだと思ったが、相手は和葉と雅の身分を知っていてなお、このような態度をとっているらしい。円卓の王とキングメーカーを前にして、あまりにも不遜な態度である。和葉は身分を盾にして己を護るつもりはなかったが、腹に据えかねた。
 爆発しそうな怒りを鎮めたのは、雅の一言だった。
「ええ。無駄なことや知っていて恥ずべきことは一切教えない完璧な講義だと思います」
 和葉は始め、意味が分からなかった。たっぷり三秒後、見る見るうちに赤くなった女の顔を見やってから、ぴんと閃いた。和葉がぷ、と噴き出すと、女は眦を吊り上げて和葉を睨みつけた。
 皮肉を皮肉で返された格好悪いお嬢様に比べ、うちのお嬢様はなんて素敵な人なんだろうと、和葉はときめきを覚えた。鼻高々である。
「はいはい。執務室ね。こっちですよー、グリグリお嬢さん」
 一転して上機嫌になった和葉は、笑みさえ浮かべて女を案内してやった。「グリンクレッタです!」と叫んだ声は聞こえないふりである。

「シルヴィス様!」
「……グリン」
 執務室に入るなり、立って本棚で資料を探していたらしいシルヴィスに駆け寄って、その胸に思い切り飛びついたグリグリお嬢さんことグリンクレッタは、媚びるような上目遣いでシルヴィスを見上げた。
 軽装だが質の良い騎士服を着た美形のシルヴィスと、お姫様のようなグリンクレッタが寄り添っている様子は、背景が岩なのを除けば、絵画のように美しかった。和葉は少しだけ見惚れてから、役目は終わったとばかりに黙って執務室を後にしようとした。
「待て。和葉、雅」
 美女に抱きつかれたというのに顔色一つ変えずに彼女を自分の身体から離すと、シルヴィスは和葉と、成り行きを見守っていた雅を呼び止めた。
「紹介する。グリンクレッタ・ゲートリッジ。イナス大陸の名家ゲートリッジ家の令嬢で、私たちに協力してくれている――仲間だ」
「婚約者ですわ」
 ふふん、と見下した態度で言ったグリンクレッタに、シルヴィスは否定の声を上げなかった。名家の御令嬢と婚約できるなんて、やはりシルヴィスは一般人ではないらしい。和葉は驚きつつ、少しずれた所で感心した。
 彼と出会って一月が経つが、その目的以外は全て謎のままである。キングメーカーの証しである王印を見せてくれと言っても、適当に誤魔化されたので、和葉は彼がどのような紋様を持つキングメーカーなのかすら知らない。盗み見ようとしても、彼もユエも普段は薄いグローブで両手を覆っているため、叶わなかった。
 このように、シルヴィスとユエとヒビキは依然として怪しい三人組のままだが、和葉は一カ月の共同生活の末、彼らが悪人ではないということははっきりとわかっていた。むしろ、世界を良い方向へ向かわせようと尽力しているところから、かなりのお人よしなのではないかとの見解である。雅も同意見だった。
「貴方方のことは存じ上げておりますわ。魔族の円卓の君と、キングメーカーでしょう?天才的な運動能力と魔力を持っていて、二人揃えば無双の活躍も間違いないとお聞きしました」
 先程の態度とは打って変わって、グリンクレッタは二人を褒めちぎった。あまりにも白々しい手のひら返しである。和葉は怒りよりもむしろ、呆れた。もう何も言うまい。
「素敵な恋人だね」
 雅がポツリと呟いた。むしろ、チクリ、だろうか。
「……。グリン、報告があるんだろう」
 明らかな話題転換である。シルヴィスは何故だか雅から逃げるように視線をそらし、グリンクレッタに促した。グリンクレッタはシルヴィスに必要以上にくっついたまま、嬉々として語りだした。
「『道化の粛清』の準備が整いましたの。あとは五月蠅い『虫』を払い落し、『歌姫』を取り戻すだけですわ。そうすれば『道化』は罠に帰ります」
 何かの暗号だろうか。和葉は首を傾げて雅を見た。雅は和葉の視線を受けて、軽く頷いた。どうやら雅には何の事だかわかるらしい。
「西エナスの情勢を変える計画が動き出すってこと」
 雅は和葉にだけ聞こえるような声で言った。和葉はきょとんとする。
「なんで今のでそれがわかるの?」
 雅は黙り込んだ。シルヴィスが代わりに説明を始めたのである。
「魔族のもう一人の円卓の王は『妖蟲』の王印を持つ黒蟲区・蟲の一族の長ジェイムだ。この男は西エナスの円卓の王であり、大国シャイオンの王子である『仮面の道化師』チェリック王子と手を組み、西エナスのもう一人の円卓の王を擁するセレズニアを実質占拠している」
 傍若無人で残忍な男と、馬鹿丸出し男だ。和葉は初日のシルヴィスの説明を思い出していた。彼らがもっとしっかりとしていて、シルヴィスのお眼鏡にかなうような人格者であれば己は何もしなくてもいいのにと、和葉は少し不満に思う。
「ジェイムは黒蟲区と紅狼区の狭間で今も小競り合いを起こしているが、チェリックはセレズニアから何故だか梃子でも動かない。我々はセレズニアで捕えられているもう一人の西エナスの円卓の王『歌姫』杏珠を取り戻すため、何カ月も前から計画を練っていた」
「黒蟲区で騒ぎを起こし、チェリック王子がセレズニアから離れざるを得ない状況にして、その隙にセレズニアを奪還するのですわ」
 グリンクレッタがシルヴィスの言葉に続けて言った。
「セレズニアを奪還された後、チェリック王子は母国シャイオンに必ず帰らなければならなくなりますわ。その国でわたくしは一つ、罠を仕掛けておきましたの。それが『道化の粛清』ですわ」
「グリン」
 シルヴィスが不意に厳しい声を出した。
「言ったはずだが、けして――」
「わかっておりますわ。非道なことなどしておりません。貴方様からのお願いですもの。ですから、この作戦が成った暁には、今度こそわたくしと結婚して下さいませ」
 シルヴィスは溜息をつきたそうな顔をした後、口元に微笑みをたたえた。
「わかった」
「嬉しい!」
 和葉はこの二人の関係にはあまり興味がなかったが、一応訊いてみた。
「恋人同士なんだよね?」
「もちろんですわ!」
「そんなわけないでしょ」
 シルヴィスは答えなかったが、グリンクレッタからは元気な返事が返ってきた。その返事に重なるようにして響いた否定の声は、絶妙なタイミングで現れたユエのものである。
 ユエは雅への魔法講義を終えた後、書架に行ったらしく、大量の本を手の上に積み上げたヒビキを後ろに従えて、自らは手ぶらのまま颯爽とシルヴィスとグリンクレッタの元まで歩み寄った。
「はいはい、離れなさい女狐」
 ユエがひっつき虫のようにシルヴィスの腕から離れないグリンクレッタを無理やり引きはがすと、グリンクレッタはきりりと眉を吊り上げた。
「女狐は貴女じゃありませんの!」
「シルヴィス。いよいよ計画の実行ね」
 ユエはきーきーと煩いグリンクレッタを無視して、さり気無く二人の間に割り込んだ。彼女は二人の間柄を良く思っていないようである。
 ヒビキが部屋の真ん中にある執務机の上に大量の書物を一度に置いた。机がきしむ音がして、シルヴィスが少しだけ嫌そうな顔をした。
「ユエ……細かい作戦の内容はお前に任せたはずだが、まだ報告を受けていない。いい加減に説明しろ。ぶっつけ本番で実行するつもりか」
「良い作戦を思い付くためにはそれなりの時間が必要なのよ」
 ユエは飄々としてそう言ってから、積み上がった書物の一番下から、薄い本を取りだした。拍子に本の山は崩れ、全てがぼうとしていたヒビキの胸に直撃した。
「ぐわっ、ユエ!」
「はい、これ」
 ヒビキの非難の声などお構いなしに、ユエは和葉にそれを差し出した。和葉は首を傾げて受け取った。
「何?」
「暴漢対策のマニュアルよ。必要になるから読んでおいて」
「へ?」
「ヒビキの教え方じゃ女視点からの暴漢対策には向いてないからね。あんまり事を荒立てずスマートに暴漢を抑えるテクニックを学びなさい」
 和葉は訳が分からず、瞬きを繰り返した。お嬢様で非力な雅のほうが必要ではないかと正直自分でも思う。
「それはつまり、今度の作戦で和葉が暴漢に立ち向かわざるを得ない状況になるってこと?」
 雅が混乱する和葉の代わりに問うと、ユエは頷いた。
「和葉にはヒビキと一緒に黒蟲区に向かってもらおうと思うんだけど――ジェイムは美少年がお好きらしいのよね。あんたって適任じゃない?」
 ちゃんと相手が注目するようにふるまうのよ、と笑ったユエは悪魔なのではないかと和葉は思った。
「傍若無人で残忍な上に美少年好き!?やだよ!私、そんな変態のいる場所に行きたくないよ!」
「我儘言わないの。女だってわかったらやる気も失せるわよ」
「何のやる気!?なんで注目されないといけないの!」
「面白いから?」
 悪魔だ。この眼鏡は悪魔に違いない。
「それだけならシルヴィスが行けばいいじゃん!正真正銘の美少年だよ!」
「無理だ」
 シルヴィスは一歩引いて即答した。青い顔をしたヒビキが、守るようにシルヴィスを背にかばう。
「勘弁してやってくれ。可哀そうだろ!」
「私の方が可哀そうだよ!ねぇ、雅!」
「え、何?」
「聞いてないし!」
 雅はグリンクレッタと睨み合ったまま、和葉の同意を求める声におざなりに答えた。和葉は裏切られたような気持ちになった。
「ひどい……皆ひどい……」
「まぁまぁ、ジェイムと二人きりで相対することなんて無いさ。いざとなったら俺が助けてやるから、機嫌治せ」
 ヒビキが宥めにかかったが、和葉はお見通しである。結局、彼にとってはシルヴィス大なり和葉。むしろ大なり大なり大なりかっこ無限大和葉なのだ。気を持たせるだけ持たせておいて、ひどい男である。
 和葉が混乱してあることないこと考えている間に、計画の全貌がユエの口から発表された。

 和葉はむっつりと黙りこんだまま、雅の部屋に入った。鍛錬が終わり、夕食を摂った後は、雅の部屋でお喋りをすることが日課になっていた。
 なにしろこの世界にはテレビが無い。ラジオも無い。電化製品と言うものが存在していないのだ。この世界に来るときに鞄を置いてきてしまったので、教科書を読んで元の世界を懐かしむこともできない。――勉強できないとは言わない。
 雅と話すのは楽しかった。雅は口数が多い方ではないが、訊けば何でも答えてくれた。彼女は物知りで、意外とノリが良く、賢い切り返しで和葉に話すことを楽しませてくれる。彼女と話していると、自分まで賢くなっていく気がした。
「雅と一緒が良かった」
 和葉が正直に言うと、雅は苦笑した。
「あたしも和葉と一緒が良かった。シルヴィスと二人きりなんて息が詰まりそう」
 雅が冗談のように言ったので、和葉はその意味を深く考えなかった。
「あ、そうだ。雪を出せるようになったよ」
「え、見せて!」
 和葉はソファに座ったまま、向かいに座る雅へ身を乗り出した。雅は両手を開いて体の前に出し、見えないボールを持つような仕草をした。
 雪の魔法は水や氷を作るよりも高度な魔法なのだそうだ。まず雪を作るための水を生みだし、凍らないだけの微妙な冷気を生みださなければならない。青の一族の魔法――水を操ったり、怪我の治癒や防護の壁を生みだす魔法――が特に適しているとユエに太鼓判を押された雅は、魔法のコントロール精度を高めるため、鍛錬の初日から雪を作る練習をしていた。
 雅の両手の間に、もやもやとした水蒸気が生まれ、冷気で冷やされて目視できるような結晶になっていくのを見て、和葉は瞳を輝かせた。
「すごーい!」
 雪は雅の両手から離れてふわふわと浮いたかと思うと、和葉の頬にくっつき、溶けていった。
「もっと練習して、持続できるようにしないとね」
「すごいよ!私もそんな分かりやすい魔法が使えたらよかったのに!」
「火を出せるでしょ?」
「危険だもん。コントロールできなくて自分まで燃えちゃいそうで怖い」
 和葉は鍛錬初日に、ヒビキの髪を焦がした事件を思い出し、口をとがらせた。
 ひと月の間に色んなことがあった。和葉は思い出して、また不安に襲われた。
「……雅と一緒が良かった」
 雅は和葉の顔を見つめて、困ったように笑った。
「また会えるよ。きっと大丈夫」
 雅がそう言うと、本当にそうなるような気がして、和葉は安心する。
(雅がパートナーでよかった。――私が雅を、護るんだ)
 和葉はひっそりと決意して、雅に笑いかけた。
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