落ちてきた二人

   
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 何の心の準備もしていなかった和葉は、砂から飛び出て来た「それ」を見て悲鳴を上げた。ぐにゃりと身をしならせた「それ」は、和葉と雅の頭上にその身を叩きつける。
 あまりのことに茫然として立ち尽くす雅の肩を抱いて、和葉は横に跳んだ。体育の成績だけは首席級である。「それ」を見事に回避して、雅の身体を抱いたまま岩場に身体を押しつけた。
「なんなの、」
 それ以上言葉が出ない。雅は悲鳴も上げられずに和葉の腕の中でなすがままである。
 砂場に横たわった「それ」は、大きなゴムのようであった。砂と同じ赤茶色のゴム状の物体は身を起こし、砂から身を突き出すようにして二人の前に聳えている。例えるならばぐにゃぐにゃとしなるゴムの塔だ。
 象の身体ほどの太さの「それ」は、一度ふらりと揺れたかと思うと、横なぎに二人を襲った。背中を岩場につけているために、和葉はそれを避けきれなかった。覚悟して雅を護るように強く抱き、目を固く閉じる。
「……?」
 横とびに吹っ飛ばされるのを想像していた和葉は、いつまでたっても衝撃が来ないことを訝しんだ。
 目を開けると、体の右側にゴムの塊があった。ぐぐ、と力を入れているのが分かるが、それ以上和葉に近づけないようだ。訳が分からず、和葉が答えを求めて雅を見ると、雅は両掌をゴムの塊に突きつけて、目を瞬いていた。
「ど、どういうこと?」
「私も聞きたいです……」
 まるで雅の掌から、見えない壁が生み出されているかのようだ。雅は震える声で戸惑いの言葉を口にした。
 おう、と何かが呻く声がした。ゴムの塊は静かに見えない壁から身を離すと、ふらりと揺らめいて、再度叩きつける。がつんと身がよだつ音とともに、またも見えない壁がゴムの塊を受け止めた。
 がつん。おう。
 がつん。おう。
 狂ったように叩きつけるゴムの塊の勢いに、雅が腕を震わせた。壁への衝撃と連動して、腕にも衝撃が襲っているのが、雅の苦しげな顔から察せられた。
 壁がなくなるのも時間の問題だと、和葉は悟った。
「使え!」
 岩場を登って逃げることを考えていると、男の声がした。同時に、足元にざくりと何かが投げ込まれた。
 剣だ。ファンタジーの世界でよく見る、典型的な剣が、足元に突き立てられている。
 和葉は剣など扱ったことが無かった。見たのも初めてだ。けれど反射的に雅を背後に押し込み、それを両手で構えた。
「和葉!」
 雅がこの時初めて悲鳴を上げた。
 剣は思ったよりも軽かった。むしろ軽すぎる。和葉はゴムの塊へと踏み込んで、羽のようなそれを振り翳した。
 ゴムの塊を斬りつけると、感じたことのない衝撃が腕を襲い、和葉は剣を取り落としてしまった。ゴムの塊はおおうと悲鳴のような声を上げて、二人から離れた。和葉が状況を理解できないでいると、腕をぐいと引かれた。
 振り返ると、銀髪の女が雅の手を引く反対の手で、和葉の腕をとっていた。
「さがりなさい。邪魔よ」
 眼鏡の奥の緑色の目が、厳しい色を含んで和葉を射抜いた。
「おう、さがってろ。俺がちゃんと守ってやるからなー、可愛い子ちゃんたち」
 剣が投げ込まれる前に聞いた声だ。後ろから現れた大男は、背中が隠れるほどの大剣を背負っていた。赤い髪をかきあげて、それを片手で構える。ふざけたことを言いながら、目は真剣にゴムの塊を見据えていた。
 ゴムの塊は身を震わせ、和葉に斬りつけられた傷から液体を噴き出しながら襲ってきた。恐ろしさに和葉が後ずさると、銀髪の女が呆れたように「大丈夫よ」と言った。
 大男が踏み込んだ。目にもとまらぬ速さで大剣を振り回したと思うと、ゴムの塊が悲鳴を上げた。
「頑丈なやつね」
 女が呟いた。まるで人ごとのような響きである。和葉はとてもそんな余裕を持つことができず、恐々として大男とゴムの塊の戦いを見つめていた。
 不意に、バンと銃声が響き、ゴムの塊の先に大きな穴が開いた。バン、バンと銃声が立て続けに起こり、ゴムを貫通していく。穴だらけになったゴムの塊はついに断末魔の悲鳴を上げて、砂の地面に倒れて動かなくなった。
「おいおい。いいところだけ持っていくなよ」
 銃声が聞こえてから傍観していた大男は、溜息をついて見上げた。和葉と雅がつられて見上げると、岩場の頂に太陽を背負って立つ青年が見えた。
 青年は「幸せが逃げるぞ」と意味のわからないことを言って、和葉の目の前に降り立った。
 黒髪に紫の目、現代っ子の和葉が慣れ親しんだテレビの中でも、見たことが無いほど整った顔立ちの青年は、これまた見たことの無い――あえて言うならば、ファンタジーな世界での軽装の騎士服のような――服を着ていた。その服の腰にあるホルダーに、今しがた使用したであろう銃を仕舞い、青年は和葉と雅を見据えた。
 改めて見てみると、隣の女もローブを着ていたし、笑いながら近づいてきた大男もまるで冒険者のような服装をしていた。
(何、このコスプレ集団)
 そう思ったのは和葉だけではなかったらしい。雅は和葉の手を掴んで、怪しい三人組から距離をとった。
「あれ。警戒されてんのか、これは?」
「お前の顔が怖いからだ」
 青年が言うと、大男は己の顔を撫でさすり、唸った。横一文字に刻まれた大きな傷が、精悍な顔立ちをさらに際立てている。彼が笑っていなかったら、和葉は一目散に逃げ出しただろう。
「貴方たち、一体何者なの?」
 雅は先ほどとは一転した口調で問いかけた。弱気な態度でいたら呑まれそうな雰囲気を持つ三人組を前にして、お嬢様然とした態度もなりを潜めたようだ。
「私たちが何者であろうとも、お前達には関係の無いことだ。それよりも、助けられておいてその態度か」
 青年の言葉に雅は言葉を詰まらせた。
「……ありがとう、ございます」
 いくら怪しかろうと、正体不明のゴムの塊から救ってくれたのは事実である。雅が頭を下げたので、和葉もそれに倣った。
「あの、ここはいったいどこですか?」
 自分が話すと相手に失礼なことをしてしまう気がした和葉が何も言わないでいると、雅が慎重に言葉を選んだ。
 青年が口を開いた。三人のうちでは最も年若いとみられるが、どうやら彼がリーダー格らしい。
「エナス砂漠の北側だ。後二時間、ラクダで行けば赤の一族の砦に着く」
 和葉と雅は顔を見合わせた。どうやら、ここは日本ではないらしい。
「その、砦には空港とかありますか。日本行きの便があれば一番いいんですけど」
「ニホン?私はこの世界の全ての土地や部族、国を把握しているが、そんな地名は聞いたことが無いな」
 堪能な日本語を話しておいて何を言うのだ。からかわれたと感じた和葉は、抗議をしようと口を開く。それを、雅が止めた。
 雅は青い顔で、青年を見上げていた。
「この、土地の名前は?大陸ですか?」
 青年は怪訝な顔をしていた。
「エナス大陸だ。この天球上で一番大きな大陸だが……まさか」
 和葉は少しだけ、思考が追いついてきた。
 青年が雅の右手を引き、その手の甲を見る。何かを探すような視線をさまよわせた後、今度は左手を手にして、目を見開いた。
 雅は状況を理解しているらしい。逆らわずに彼の思うようにさせていたが、突然抱きつかれた時には、さすがに動揺したらしい。
「な、なにっ?」
「ちょっと、雅から離れてよ!」
 見かねた和葉が青年の腕を掴むが、青年は雅の肩に顔を埋めて動かない。
「――……キングメーカー……。待ちかねていた」
 青年がくぐもった声で、感極まったように言った。和葉が聞き返そうとすると、黙っていた銀髪の女が和葉の右手をとった。
「それだけじゃないわよ。信じられない」
 青年が顔を上げて、和葉の右手の紋様を見た。雅から離れ、確かめるように二つの紋様を見比べる。
「『背中合わせの君』――まさに奇跡だな」
 青年が言うと、大男が大きな声で笑った。
―――――
 青年はシルヴィスと名乗った。女はユエ、大男はヒビキといった。彼らが向かう赤の一族の砦という所まで連れて行くという申し出に承諾した二人は、初めての乗ラクダを経験していた。
「ここが地球じゃないってことはわかったけど、なんで私たちがこんなところに来ちゃったのか全然分かんない。ちゃんと説明してよ。ねぇ、聞いてる?」
「五月蠅い女だ。砦に到着してからゆっくり話すと言っているだろう」
 大男のヒビキの前に乗せられ、和葉は不満を口にしたが、シルヴィスはそう言ったきり沈黙した。ユエと雅の乗るラクダは、シルヴィスの乗るラクダを挟んで最後尾についている。唯一この奇妙な状況を共有している雅と引き離された和葉は、憎まれ口を叩きながらも心の中は不安でいっぱいだった。
「ここって、こんな砂漠ばっかりなの?」
 こことは、この世界のことである。不安を隠すために、矢継ぎ早に同乗しているヒビキに質問すると、ヒビキはおおらかに笑いながら一つ一つ説明してくれた。
「まさか。この世界に砂漠はここと、別の大陸にしかないぜ。他は山や盆地や川や草原とか……お前らの世界には無いのか?」
「ううん。――じゃぁ、基本的には同じなんだね」
 ラクダをラクダといい、空を空といい、太陽を太陽という。世界を天球というのは除いて、基本的な名称は変わらないようだ。それとも、日本語で話しているように聞こえるが、実際は違うのだろうか。別の言語を己の知っているものに変換して理解しているのかもしれない。
(そういえば聞きそびれたけど、あのでっかいゴムってなんだったんだろう。――……怖いから聞くのやめよ)
 和葉にしては難しいことを考えながらヒビキと談笑していると、地平線が消え、遠くに山が見えた。
「見えるか?あれが赤の一族の砦――魔族の集落で、俺の故郷だ」
 まぞく?
 和葉はヒビキを見上げた。
「まぞくって、何?」
「お前の世界にはいないのか?魔法を使える人間のことだ。この世界には、単に『人間』と言われる普通の人間と、『魔族』と言われる魔法を使える人間、『獣人族』と言われる体の一部が動物の姿をした人間がいるんだ。赤の一族は魔族の中でも、戦闘能力を高める魔法や炎の魔法を使うのが得意な一族だ」
 ファンタジーの世界だ。ヒビキの話を聞くにつれ、少しずつ非常識なこの世界に慣れ始めていた和葉は目を輝かせた。
「じゃぁ、ヒビキも魔法が使えるの?火を出せる?」
「出せるけど、見せるのは後でな。こう暑くちゃ、火なんか出したら頭がやられちまう」
 じりじりと照りつける太陽を恨めしげに見上げて、ヒビキはぼやいた。
「シルヴィスやユエも魔族なの?」
「いや、あいつらは人間だ」
「でも、あのゴムに大きな穴を開けてたよ?」
 穴は和葉の頭ほどの大きさがあった。しかも、大剣で斬りつけても苦戦するような頑丈なゴムを貫通する威力だ。刑事ドラマで見るような普通の拳銃の威力ではないように思えた。
「それに関しては俺もよく分からないんだけどな――ユエに聞いてくれ。あいつが専門だから。小一時間ほど無駄な講釈をたれられるかもしれないけど」
 和葉はヒビキの大きな身体の後ろを苦労して見やった。雅とユエは、気難しい顔をしてなにやら話し込んでいる。明らかに、和葉の嫌いな難しい話をしている。
「私にはちょっとハードル高そう」
 舌を出して言うと、ヒビキは大きな声で笑った。
「気が合うな。俺もあいつが難しい話をしてくると、舌を出して怒らせて中断させてやろうかと思うよ」
 ヒビキの話は面白く、人の良い笑みは和葉の緊張をほぐしてくれた。赤の一族の砦に着くまで、和葉は己の奇妙な状況を忘れることができた。
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